沼津救難所(MRJ沼津)の歴史
 

           沼津市  我入道青年会



浮輪会 誕生の概要
 
  我入道青年会は、かつて海難救助の勇士として、全国に名をはせ、誇りをもっていた。
 海難救助に尊い生命を捧げた八人の遺徳を顕彰し霊を慰め、青年会に輝かしい実績と伝
 統を記録にとどめようと、歴代会長ら四十九人が中心になって「我入道浮輪会」を結成した

青年会の歴史的背景と経過
 
  我入道の住民は古くから生計の道を漁業に求め、この海とこの潮風が人生の道標となり
 すべての美しい伝統はこの大自然の中で育くまれてきた。そして、数ある我入道の伝説
 を語るとき、まず始めに浮かぶのは、駿河湾一帯の難破船と人命の救助に活躍し、広く
 その名を知られた我入道青年会の輝かしい存在である。
 我入道に在住の男子は満十七歳より満二十五歳まで、一戸で一人、必ず入会する義務を
 負い、人格の練磨と義勇奉公の実践行動に緊張と歓喜の青春時代を過ごしたのである。
 青年会は、ずっと昔からあり、明治四十五年の会長で歴代会長の最古老芹沢米次郎さん
 でも、いつ青年会ができ海難救助を始めたかわからない。江戸、明治時代には「湊(港)
  若」などとよばれたこともあったという。
 以後、青年会、消防組、海難義済会、青年団水難救助部を経て、昭和十六年、全国組織
 の帝国水難救済会ができたときには、我入道青年会が沼津救難所を受持ち、戦後は日本
 救済会沼津救難所とその名称は変っても「海の守り役」をつとめてきた。
 しかし、若い漁師が少なくなり、昭和四十五年解散したが、その誇りと伝統は今でも生
 きつづけている。入道の歴史的・地理的な概要
 
  沼津市は古来から海路を輸送機関とした生活物資の集散地として発展してきた町である
  が、特に漁業は特筆される産業の代表として伊豆半島随一を誇り、わけても我入道の名
  は全国的に有名であった。
  市の中心部を流れる狩野川の右岸に立並ぶ問屋街の風景は、時代が変わっても水野藩の
  城下町として面影を偲ぶことができ、更に、魚市場は伊豆半島の水揚場としてその機能
  を充分に発揮し、千石船や伝馬船に至る漁船・貨物船の従来で殷賑をきわめたのである。
  しかし、航行練達の船乗りや船頭が最も恐れたものは、駿河湾特有の西突風による座礁、
  激浪による転覆、濃霧による漂流等、自然現象により翻弄されることであった。これは一
  瞬にして多くの人名や船舶・物資等の喪失を意味していたからである。
  ここ我入道地区は狩野側の河口に位置し、頻発する海難事故の現場に最も近いという地理
  的条件に加え、漁業に生きる町として遠い昔から救難活動に挺身する必然性を備えていた
  ことが想像される。

水難救助部の活動
 
  我入道青年団水難救助部の救難活動の歴史は古く、江戸時代初期の頃からであったと推測
  されている。幾百年にわたる救助活動の実績をふまえた輝かしい伝統は広く世間に喧伝さ
  れていた。
  この救助活動によって運よく救助された多くの人々からのおびただしい礼状は三尺の高さ
  に及び柳行李に三杯もあったと古老に言い伝えられている。しかし、この栄光の陰に、救
 助部員に課せられた厳しい規律による訓練と、時に殉職するという痛ましい事故の現実を
 秘め、常に決死の覚悟を要求されていたのである。十七歳から二十五歳までの真心と義勇
 殉難の一念に燃えた若い青年の集団はひとたび遭難事件の知らせを受けるやいなや直ちに
 一同決起し、暴風雨の中に何ら報酬も考えず死の不安すら念頭になく青春の身を投げ出し
 たのである。
 あまりの寒さに醤油を呑んでわざと体調を狂わせ、一時的に体温を保つという智恵を働か
 せた部員もいたほどであった。
 怒涛逆巻く真只中に我先にと身を躍らせ、細いロープを携えて真暗闇の中に烈風と救助を
 求める悲鳴を目がけて木の葉のように揺れる沖の難破船に泳ぎつき救助作業をすることは
 言うは易くとも至難の業である。
 救助に成功しても部員全員の無事を確認し合うまでは緊張の連続である。
 遠い過去からの部員による犠牲者に記録は今日不明であるが、明治二十八年に一名、大正
 十一年に四名、昭和二十一年に三名と実に八名の痛ましい犠牲者を数えるのである。

浮輪会の結成
 
  この方々に対し、当時としては無理からぬこととはいえ、身分保証もなく何の報われるも
  のもなかったのである。
  これら八名の方々の人間としての崇高な生き方、最も美しい魂の響きをこのまま朽ちさせ
  てはならないと、かつての同士が期せずして相寄り、その霊を慰め、功績を讃えるとの目
  的をもって昭和四十六年七月一日に我入道浮輪会が発足したのである。
  以来一年に三回犠牲者の義魂碑前において、故人に冥福と尊敬の誠を捧げているのである。

 
(参考資料)
○我入道水難救助部の歌
○水難救助犠牲者 義魂碑々誌について

名島の想い出
 
 大瀬崎うらの「名島」で東京の釣り人四人が遭難、救助に急行をとの通報を救難助長故岩崎
 清次さんから受けた私は、直ちにサイレンを鳴らし関係者に連絡した。特に昭和三十年一二
 月一五日午後一時三十分であった。
 瞬間、私の脳裏に浮かんだのは、出動する救助部員数十名の生死にかかわることであった。
 というのは強風波浪の気象台の注意報が出ていたためであり、しばしば犠牲者を出していた
 ためである。
 しかし、義勇に殉ずる我入道青年団の伝統が我々を出動にかりたてたのである。午後二時、
 名島に向けて出航、二十数名を乗せた救助船救生丸は六十馬力の高速エンジンを全開。強烈
 な西風と大浪の中に、焦操と緊張の一時間が経過した。午後三時遭難現場に到着。救命胴衣
 を着けた救助部員の機敏な作業によって、数回ひけたが投錨に成功、約三十米の距離から名
 島に向けて救命銃を発射、島を飛び越えて救命銃からのナイロンテープが見事に島にからみ
 ついた。島の上の四人が両手で拝んでるのがよく見える。救命胴衣を付けた救命部員二名一
 組が次々海中に身を躍らせ、荒波と闘いながら島にたどり着きナイロンの細ロープを中細ロ
 ープに変え、一人ずつロープにつかまらせ部員二名が付き添って次々と救助船に乗り移らせた。
 この救助活動は約一時間三十分であった。
 四名を無事救助した本船は追い風を受け一路母港へ意気揚々と引揚げたのである。
 この四名の中の一人、東京練馬区の山川武さんから毎年感謝のこもった年始状をいただいている。
 その度に私は、過ぎ去ったあの時の想い出にふけるのである。そして、現在の世相のあれこ
 れと比較して我々のとった行動と、その背後に息づいていた純粋な哲学が、本当の正義という
 ものではなかったかよ、しみじみ思うのである。

創刊号 李刊 我入道新聞 昭和四十八年一月一日付                  
「名島の想い出」稲荷町 鈴木市郎(大安丸船長)に記載されていたものを転記入道水難救助部の歌

  頃は大正十一年  弥生の空の雲晴れて吹くものどかな春風も  ここは名に負 う狩野川の河口は怒涛逆巻きたて  
     西風強く沖暗し

 折しも起る烈の  悲鳴は風がもたらして哀切こもる警笛と  叩く戸毎の我入道すは難破よと駆けいずる  
    後方の沖は豆洲丸

 幾年月の訓練は  ここぞと燃ゆる侠血に狂乱怒涛ものかわと  繰りいだしたる六十名正義の前に軽き身も  
    救助の任はいや重し

四 互にそれとうなづきて  ザンブザンブと荒波に身を躍らせて雄々しくも  木の葉の如く浮き沈み千波万波とたたかいつ  
    目指すは難破豆洲丸

 誠心神に通じてか  一人残らず本船に移して凱歌ようようと  引揚げみれば何事ぞ四名は消えて影もなく  
    沖は怒涛の音ばかり

 逝き日去り万有は  狩野の流れと変れども 変らぬ響き波の音  ああ美はしの犠牲者よ永遠に我等の耳うちて  
    我が救助部の鏡たれ我が救助部の誇りなれ
 
義 魂 碑 誌

我入道地先狩野川河口は雄大秀麗な富士のもと、稀有の水源地柿田の湧水が駿河湾に注ぐ天下の景勝港であるが、
ひとたび海怒り波浪逆巻く時は練達の航海士といえどもしばしば難破の憂目をみるところでもある。
淵源遠く、難破船救助と愛郷の一念に燃え結集した若者達は、爾来幾星箱、顕著な功積を残しつつ我入道青年団水
難救助部を経て日本水難救済会沼津所へ発展しその栄光の歴史は、広く内外に喧伝され、また長く我入道の伝説と
なっている。しかしこの社会的大事業も多くの救助部員の赤誠と身命を捧げた尊くも悲しい痛恨の上に築かれたも
のであった。

 一  明治三十八年五月一八日  

芹沢 熊次郎 君 二十才 蒲原郡相良の帆船が河口を航行中、南時化の激浪をうけ遭難、この救助に赴き犠牲となる。 


 一 大正十一年三月二十三日  

川口 一郎 君 二十三才 芹沢 常吉 君 二十一才 鈴木 彌作 君 十九才 平野 忠常 君 十九才

東京湾汽船会社の客船豆洲丸が強い西風による激浪と悪潮のため河口の浅瀬に座礁、この救助の際犠牲となる。

 一 昭和二十一年二月五日   

岩崎 栄太郎 君 二十八才          後藤 勝男 君 二十二才          芹沢 義次 君 二十才

我入道の小船百余隻が折柄豊御のイカ釣り中、夜半強い西突風に遭い、河口の浅瀬でつぎつぎ転覆、
この救助に出動し犠牲となる。

このたび曹つての同志相計りここに我入道浮輪会を発足させ、先達の遺志を宜揚せんとす。
今宿縁の河畔に殉難の略誌を留め郷土開発の先駆者として、また我入道に生きる者の亀鑑として、
永くその偉業を讃えんとするものである。     
                                  
昭和四十七年七月一日 我入道浮輪会 我入道区 我入道漁業協同組合
Mrj numazu