資格取得への目覚め

 暑い夏が来て、思いだすのは、今から21年前、静岡県の三島市から東京の水道橋校舎へ通ったスク−リングのことです。私は、今、弁護士として民事刑事事件解決のため毎日忙しい日々を送っておりますが、あの頃は、仕事としては豆腐屋をしており、朝豆腐を作って昼から夕方にかけて豆腐を売る、夜は、勉強という毎日でした。このような毎日は、悩みの連続でした。それは、自分は豆腐屋をしたくはないが、豆腐屋をしてゆかなくてはならない。何か他の職業をしたいと思っても、夜間高校卒業、夜間短期大学卒業の私には、学歴がないから、思うようなところへは、就職できない。仕事や学歴に劣等感をもち、希望も持てない毎日であったからです。

 このような悩みの中に徐々に希望の光りを持つようになったのは、「資格取得」を自覚し始めたからです。この考えが生れたのは、「資格を取れば会社も社会もその実力を認めてくれる」という三島日大短期大学部夜間の友人達との雑談でした。当時、いろいろ話題となったのは、教員資格、国家公務員中級職、税理士資格などでした。「自由の友社」から出ていた「資格試験全書」を購入し、こんな資格があるのか、こんな資格を取れたらいいなあと頁をめくったものです。現に、友人に公務員として勤めていた者がおりましたので、夜間短大の学生のときこの友人とともに国家公務員中級職に挑戦しました。しかし、これは、見事に落ちました。このように資格を取ろうという考えが生れ、昭和40年に日大の通信教育経済学部へ進学しましたが、これも公認会計士の資格を取ろうという考えたからです。

 しかし、このように資格を取ろうと考えても具体的には、なかなか困難なことが多くありました。それは、思う資格が本当にとれるのだろうか、勉強をどのようにすれば良いのだろうか、また、日大の通信教育から送られてくる課目は試験とは関係のない課目でありこれを強制される苦痛、農業政策などの勉強に情熱を持てない苦痛などでした。このような思いを持ちながらスク−リングの昭和40年7月を迎えました。受験資格を取るためにはスク−リングへは行かなければならないと考え暑い東京へ行った訳です。スク−リングでは、東京の中央郵便局へ勤務していた大塚英樹君、九州唐津市から来た会社員の倉持泰男君、山形からきた県税職員の大塚勝衛君など他の学生と知り合い、旅行に参加したり、共にビヤホ−ルへ行ったり、それなりに楽しみました。しかし、私にとって人生の大きな転回のきっかけになったのは、スク−リングの講義でした。大きな講堂で多くの学生を相手にマンモス講義が中心でしたが、刺激のある講義でした。司法試験を決めたのも、現在は日大の総長になられた高梨先生の民法の楽しく情熱のある講義を聞いたことからです。法律というのは楽しいのだなという単純な理由で、資格だけは知っていた司法試験をやろうと決意した訳です。「盲、蛇おじず」という言葉がありますが、こういうことも大切なことです。

 司法試験を取るといっても簡単に受験することはできません。私は、受験環境を作るために司法書士、行政書士、教員、国家公務員中級職をとろうと決意しました。長男で一人息子が豆腐屋をやめれば、豆腐屋はつぶれ両親とも生活にこまることになるからです。大学は卒業すれば成績はどうでもよい、資格取得だと考え、資格受験と卒業のための勉強をし始めました。昭和41年6月不動産業のための資格宅地建物取引主任者試験受験・合格、同年8月土地家屋調査士試験受験・合格、同年9月行政書士試験受験・合格、翌42年6月司法書士試験受験・筆記合格でしたが口述で落ち、昭和43年3月通信教育卒業、10月司法書士試験合格、同年国家公務員試験行政職中級合格。このようにして、昭和44年司法書士事務所を開設し、昭和45年から司法試験の受験を始めました。

 司法試験は、勉強すべき範囲が多く、高度な知識を要する試験で大変です。しかも、私は、頭が良くない、また、仕事をしながらです。しかし、「普通の能力の人でも工夫と努力をすれば必ず合格するという言葉を信じ、人の勉強の倍やろう。」とガンバリました。昭和55年になんとか合格しました。普通の能力の人でも「工夫と努力」をすれば必ず合格するということを実証できた訳です。後輩の諸君も悩みながら、不安を持ちながらの毎日と思いますが、私のような先輩もいるのです。ガンバッテください。 1986年 昭和61年7月21日 後輩諸君へ記す

日本大学通信教育部 経済学部 昭和43年卒

35期司法修習生 昭和58年4月弁護士 昭和19年1月29日生


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