2004年、清水港はみんなの物ではなくなりました。人情もあってみんなの憩いの場所でした、釣りもできました、みんな自由に遊びに行くことができて、楽しい場所でした。
ボク達清水市民の誇りでした・・・
 しかし今、そのことが夢のように思えます。アメリカ主導の
悪法「SOLAS条約」によって誰も入れない港になりました。釣りも不可能になってしまいました。
今月は、楽しかった「人情清水港」の思い出と写真を掲載します。
清水港に行ったことない人も。きっとみんなに愛されていた港を想像できると思います。
 

いよいよXデーです。釣り人も、ボクも行くことができなくなりました
ただ仕事だけが行われていました、楽しい笑い声も今は完全に過去の思い出の中に行ってしまいました。時間が戻って欲しいホントにそう思いました。ついこの間まで楽しい光景がこの港にはありました、しかしもうここにはありません。
 もうこうなってしまったらきっと元には戻らないでしょうね、「人情清水港」とは永遠の別れです。さようなら
 。これからボクはどうすれは良いのでしょう、何らかの方法でクレンちゃんにあえればこの趣味とホームページを続けられそうですが。
 もし会えなければこの趣味をやめざるをえません、1パーセントの望みでもあればこの趣味を続けようと思います、今は不安、淋しさ、哀愁とか、妙な期待感とかが入り交じり心の中を交錯しています。暫くは港には近付けません。残念です。「クレンちゃんまた会って触りたいな」


 

ボクが通い始めた頃の清水港です。クレーンも少なくて田舎の港という感じでした。
 この写真は黄色のセロファンをレンズに付けとったものです。
 あー懐かしき・・デカちゃんがひとりたたずんでます。
 この日も釣り人がいっぱい来てました。

埠頭の思い出 その1「釣り人と感傷」
清水港はいつも釣り人で溢れてました、「今日は釣れるかね」そんな言葉が日常の挨拶でした。お互いに釣った魚を見せあったり、ふだんできない下品?な話も堂々としてましたね。笑い声が埠頭のあちこちで聴こえてとても明るい雰囲気でした。毎日来る常連さんもいたりして、場所取り争いもしばしば、でもみんなうまくやってました。
 でも、ここは一応仕事場・節度ある人達は、働く人とも仲良しで船が来る来ないを聞いてから、場所を決めたり、終わる時間も教えてくれるので、うまくやってましたよ。そんなことで自然と秩序が保たれていました。
 たまに来る「他所者」は一番の曲者、ルールを知らないので、車を道のど真ん中にとめたり、ゴミを捨ててったり。夏になると「問題児」が多く来て常連さんも、働く人も困りましたね。
 秋になると恋に破れたのか「ばかやろうー」と叫ぶお決まりもありましたね、港に行けなくなるとどこで叫べばいいんですかね、まさか「駅前の魚河岸の岸壁」じゃ、人がいっぱいいるからヤだね・・・
 「あー悲しき秋、淋しき秋」港は風情ありました。


ボクの存在、ボクって改めて自分で不思議だと思いますね、港では「ガントリー少年」「クレーン小僧」なんて働く人達は呼んでますね、港にいく理由は釣りでもなく、仕事でもなく、気晴らしでもなく、ただクレンちゃんといるだけで幸せなんです。かわいいあの子に会い触るためだけですね、触りながらクレンちゃんと心でお話するのが唯一の幸せです。
 周りから見ると不思議な存在のようです、「釣りやンないの」なんて聞かれますね・・・でもボクって釣り苦手なんですいるかいないか分からない魚を餌だけやって待つなんて・・・気が遠くなりますね、結果の見えないものには興味わきませんね。釣りの人怒らないでね・・・ギャンブルや宝くじもぜんぜん興味ないね・・・


埠頭の思い出 その2「バカ話し」
 ただ好きなのは「バカ話し」これは関係者の人にはあまりにも下品なので言えませんね。「う○こ」とか「お○ら」の類いです、釣り人が音をたててやった時に、すかさず真面目な顔で「へい、にぎりにしますか?、ちらしにしますか?」と言った時にはおおウケでしたね・・・釣り人はあの手の話、すぐに乗ってきます。
 ボクは趣味が多いことを常連さん達は知ってます「あんた偉いねぇ」なんて言ったので、これまたすかさず「ああ、生活がエラいよ」(事実)と言ったら、想像しなかった答らしく、大笑いでしたね。
 釣り人のなかにドスケベおじさんがいて「ち○ぼ」とか「H」の話をえんえん1時間近く聞かされて腹が痛くなったことをおもいだしました、そう言う経験が全くないボクには新鮮で笑ってしまいました。あの人はどこの人なんでしょうね・・・謎です。
 ほかにも名作はありますが、程度が悪いと誤解されるので、ここには載せられません。関係者の方、ここは見なかったことにしてください


埠頭の思い出 その3「クレンちゃんの足」
ボクが3年くらい前によくやってたのがこれです、今だから話せる「禁断の遊び」です。なんとあの本物のクレーンの車輪の部分の上のところで昼寝してました、悪いことだとは知らずにやってました、大好きなクレーンの上は、とても気持ち良くてクレーンのオーラが感じられてとても癒されてました。クレーンの匂いがしててボクはうっとりしてました。
 その頃はボクの一番幸せな時で、丸1日クレンちゃんの足で寝てたことがあります。とても気持ち良くてやめられなくて、禁止されるまでやってましたね。 それが原因で埠頭から一度追い出された・・・管理局のみなさんごめんなさい。
 そのかわり禁止されて以降は、自分のふとんにクレーンと同ペンキで塗った、分厚い鉄の板を敷いてその上で毎日寝てます、あの頃はきれいな海が見えたけど今はきたない自分の部屋の光景です・・・35キロもあって動かすに一苦労です


埠頭の思い出 その4「船の人」
 国際交流?と言うべきですかね、いろいろな人に出会えました。みんなありがとう。
船がくるとみんな、半分は不安、そして半分は期待・・・でしょうか、なわけないか・・・船の人まで釣り人と交流し、竿を貸してもらい、釣りに興じている、これも「人情清水港」ならでは。
 荷役の間は彼等も退屈らしく、船から降りてきて「釣果の検閲」にやってきます。釣れていると、親指を立てて「Good」つれないと顔をしかめて「・・・Oh・・No」そのうち見るにみかねて竿を取り上げられる始末・・・彼等を見てると国境と言う壁すらないように思えます・・・ボクも学生の時以来の英語を話す機会が増え楽しかったです。
 今年は元旦から「イパネマ」と言う船がいて、「Happy new year」なんて挨拶してたね。彼等は今年になってから、5.6番目に出会ったひとですね・・「国際交流元年」かとおもいきや「清水港閉鎖」でそれも煙の如く消えました・・・・嗚呼・・・淋しき悲しき2004年、「SARS」ならぬ「SOLAS」ウイルスで世界中の港を始め、「人情清水港」も虫の息になりました。
感染源はアメリカ・・・とても感染力がよく、すぐに死に至る強力ウイルス。人にも感染し全ての人の元気を奪い、意欲を消失させ、精神病にさせる

船の人です、
「この写真、前と同じだ」・・まーそう言わずに
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埠頭の思い出 その5「ラーメン屋台」
埠頭と言えば、釣りの次に「ラーメン屋台」、というくらい有名なラーメン屋台、「支那忠」「とりさん」「トクちゃん」「天狗」の4種類があちこちの埠頭に突然やってきます、釣り客達はチャルメラの音に誘われてついつい買ってしまいます、それぞれ味にこだわりがあるようでどれも個性があって好きでしたねェ。埠頭で海を見ながら食べるラーメンは最高においしい!!!! ボクもけっこう買って食べてましたね・・「おいしかった」
 そしてあの広い海にこだまするチャルメラの音・・・好きでした、録音したかったな・・・まさに人情清水港って感じです。
 ラーメンの売れ行きで釣果がわかるのです、たくさん釣れるとなぜか釣り人達はラーメン屋台に争うように注文にいきました、1カ所で5.6杯は売れてましたね・・・朝4時に売りに来たこともあって夏の朝焼けを見ながら食べたことは思い出ですね。夜中の0時に来たこともあって・・・これがまた「うまい」夜中のラーメンはおいしいね・・・でもこれって、めちゃくちゃ体に悪いそうで、毎晩よる遅くラーメンを食べるのが習慣だった人が45才で亡くなってしまったとか、て言う話を知人から聞いてブルーに・・・
 ボクは埠頭に泊まったことが10回くらいあるかな・・・楽しかったな、夜中にラーメン食べて、クレンちゃんの上で寝て、やりたい放題楽しんでたな・・・あの頃は・・・と言っても ほんの5年前かな・・・
 嗚呼・・・今や楽しい埠頭の思い出です・・・また、あそこでラーメンが売られる日が来ることを祈ってます・・・

いまや、これも全ていい思い出の中です、時間と言ういうものが戻って欲しい、そう思ったのはボクだけではないはずです・・・
 2004年6月「人情清水港」は終わりを告げます・・みんなが楽しみ愛した港でした・・これからは誰も伺い知れない場所になりそうです。これからはただの味もそっけもない「清水港」です。
 その終わりをボクが生きてるうちに見ることになるとは・・・まさに「悪夢」です。ボクはその最後に「人情清水港」に対して袖師埠頭で最後の一句を捧げ大喝一声であの楽しかった「人情清水港」に別れを告げたいと思います。
 しかしクレンちゃんはずっとボクのかわいい子です、恋人です・・別れたくはありません、
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