鈴木明

伝説残るロードエースを生んだトドロキモデル


その昔、国産RCメーカーとして世界に通用するロードエースを誕生させたトドロキモデル。このトドロキモデルの全てに関わった鈴木明氏の歴史について取り上げました。実に劇的な一生を持つトドロキモデル。これだけの有力メーカーがなぜ・・・ そこにはこんなエピソードが隠されていた。

「トドロキモデルとスロットカー」
一般の模型店としてスタートしたトドロキモデル。そう、普通のお店だったのです。当時の店は、ボートや鉄道模型などを扱う何処にでもあるような模型店だったのです。鈴木明氏は、このトドロキモデル社長の弟。兄弟でトドロキモデルを経営していた。
トドロキモデルにはスロットカーのコースが常設されており、沢山のお客さんで賑わっていた。スロットカーは全国的にブームとなっており、コースの在る所には腕に自信のあるドライバーが集まっていた。実はトドロキモデルのスロットカーのお蔭で今後の運命を左右する事になろうとは・・・スロットカーのドライバーはスロットル操作でコーナーワークを行い、レールで曲がる為、ステアリングをコントロールしたいと言う欲求が皆あった。しかし、現在のようなラジコンカーが当時は無く、ボートや飛行機などの簡単なラジコンしか無かった。ステアリング操作をするのは夢の世界だったのだ。トドロキモデルのスロットカードライバーは何時かはラジコンを・・・と思っていた。
石原直樹、桂伸一、由良拓也などトドロキモデルで育ったスロットカードライバーは後に有名な人物と成長していくことになる。

「初めてのラジコンカー」
スロットカーで抱いていたステアリング操作の夢を鈴木氏は自作で現実のものにしてしまった。1/20プラモデルにサーボを載せステアさせるラジコンを作ったのだ。当時のサーボは大きかった為、車のモデルに搭載するには非常に困難だった。モーターの駆動で走行するのだが、スピードコントロールは当時存在しなかったので電池直結の走りっぱなしの車だった。鈴木氏はこの自作車で空き地を走り回り、ステアリング操作を逸早く習得したのだ。

「本格的なラジコンカーとの出会い」
自作ラジコンカーで楽しんでいた鈴木氏は、市販のラジコンカーが発売されたことを知り、すぐに飛びついた。京商から発売されたエンジンカーだった。それと同時に、全国でラジコンがブームとなる。今までスロットカーのドライバーもこの頃からラジコンに転向する人が多かった。当時のラジコンカーはエンジンで走り、1スティックプロポで上下でエンコン、左右でステアリングをコントロールするものであった。鈴木氏もやっと自由にコントロールできるラジコンに出会い積極的に練習する。この時からラジコンにはまってしまった。

「初めてのレース参戦」
京商のエンジンカー登場によりラジコンカー人口が増え大会が開催されるとの情報があった。それは国際劇場裏で行われるRCカーレースで日本で始めてのレースであった。鈴木氏はこのレースにエントリーし、普段の練習の成果を試した。出場選手はボートや飛行機のRCを楽しむベテランの選手が多かった。特にボート出身の選手は当時からエンジンチューンを施し、スピードは抜きん出ていたようだ。ところがノーマル状態の鈴木氏はレースになると快走する。他の選手はスピードに物を言わせ直線では早いものの、コーナリング技術が無く、大回りでロスするのだ。鈴木選手はスロットカーで養ったスロットルワークと狭い場所で練習していたステアリングワークが勝っていた。最終的にはこの大会に優勝してしまう。日本発のレースで始めての優勝者になった。
初優勝でRCに更に熱心に取り組むようになり、その後のRC界に大きな影響力を与えるキッカケになったのだ。

「トドロキモデルここにあり」
RCカーの初優勝を決めた鈴木氏は,RCレースにどっぷりつかる事になる。スロットルレーシング時代からの仲間もRC仲間となり、お互いにレース仲間として連れ添った。この頃からディベロッパーとして手腕に定評のあった武田訓政氏が京商レーシングカーの改良パーツを自作していた。そのパーツを鈴木氏などレース仲間が使用し、好成績を収める。その試作パーツの話題が徐々に広がり、スペシャルパーツが欲しいと言う問い合わせが出てきた。そこで、武田氏の開発するスペシャルパーツをトドロキモデルが発売することになる。トドロキモデルでは特に大きな宣伝をする事無くパーツは良く売れた。特にレースでの好成績が何よりも大きな宣伝だったのだ。この頃のスペシャルパーツはジュラルミン製の軽量しなやか特性のシャーシが始まりだった。

「模型店からキットメーカーへ」
RCカーも徐々に進化を遂げ、高性能化が必要となってきた。トドロキモデルもパーツだけではなくRCカーのプロトタイプを実践投入してきた。それは外国メーカーのアソシエイティッド社等のモデルを参考にして更に高性能を狙ったモデルだった。このプロトタイプモデルは、仲間内のメンバーがレースで使用していたが、レースでの好成績の影響で、そのシャーシが欲しいと言う要望が多かった。鈴木氏は、それではキットとして発売しようと、この時に決断したのだ。
普通の模型店であったトドロキモデル、この時からキットメーカーとしてのスタートを切った。
トドロキモデルとしては始めての分野に踏み入れたが、どの様に運営したらよいのか?どんな事をしたら良いのか?パーツを売るのとは大違い、何も判らない状態からスタートした。その中で共に協力してくれたのが鈴木清史氏だった。鈴木清史氏はセールスマンとしてもトップセールスを記録するほどの優秀な営業マンからの転進だった。その後のトドロキモデルでその手腕を振るう事になる。
トドロキモデルの事務所はとても狭く、とてもキットを並べるスペースが無かった。それではどうやってキットの梱包をしたのだろう?実はトドロキモデルの前にある道路が作業場だったのだ。まずは箱を並べ、次にシャーシ、次にタイヤと言うように道路の脇に物を並べてキットを作っていたのです。このように手探り状態でスタートしたトドロキモデルはその後、右肩上がりの業績に成長していた。そして、スロットカー時代を含めRCレースを共に戦った同志もトドロキモデルの手伝いに集まってくれた。石原直樹、桂伸一、武田訓政など有名な選手たち数名が後に社員として加入した。徐々にトドロキモデルがキットメーカーとして軌道に乗り始めた。

「違いのわかる男 由良拓也とのパートナーシップ」
レーシングカーデザイナーである由良拓也氏、彼もかつてはトドロキモデルでスロットカーを楽しんでいた仲間であった。その後レーシングカーの製作に携わる事になるのだが、トドロキモデルとの接点はまだ繋がっていたのだ。RCモデル用のボディー「トヨタ7」「カンナムローラ」を製作してトドロキモデルの商品として収めていたのだ。材質は実車レーシングカーと同じFRP製で、耐クラッシュ性は劣る物の、その造型は桁外れにすばらしく、スケール的にもずば抜けていた。しかし、由良氏の時間がある時にしか製作できない為、入荷数が非常に少なく貴重なボディーであった。

「日本最強チーム フェニックスの誕生」
トドロキモデルでは以前よりワークス体制でレース活動を行っており、RC界では京商チームとライバルでもあった。国内では最強のRCチームと言っていい位の有名チームとなっていた。そこで、ワークスチームを「フェニックス」と名付け、チームカラーを統一した。このカラーリングが俗に言うバットマンカラーと言われるイエローとブラックである。チームフェニックスとなってメンバーは最強のメンバーが顔を揃えた。鈴木明、鈴木清史、武田訓政、富田直美、桂伸一、石原直樹、杉野、など
このチームが各地のレースで活躍する事により、トドロキモデルの製品はライバル京商と競り合う事となった。
何よりもヘタな宣伝に投資するよりもレースに勝つことが大きな宣伝になり商品の売れ行きにプラスになった。チームフェニックスとしては各地のレースで見込みのあるドライバーを発掘し、フェニックスの一員として迎え入れた。そして最強のRCワークスチームへとなっていく。これはライバルメーカーも同じようにいかに早いドライバーを獲得するかが強いチームを作る鍵でもあった。中には自称チームフェニックスを名乗る偽アマチュアドライバーもいたようだ。

「OSレーシングエンジンの脅威」
トドロキモデルはレースでの活躍から協力メーカーのスポンサードを受けエンジンはHGKエンジンの提供を受けた。トドロキモデルでは社内でこのエンジンをチューニングを施しレースでも十分な性能に満足していた。当時のHGKエンジンはマニアの間でもポピュラーなエンジンで、国産エンジンの中でも比較的安定した性能を引き出している。ある日、僚友の鈴木清史氏が妙なプロトタイプエンジンをテストしていた。「なんだい?それ」レーシングカー専用のOSエンジンだった。当時のOSエンジンは汎用の物しか無く、レースではほとんど使われていなかった。プロトタイプのの評価は大分良さそうだと言う。さっそく鈴木氏も実走テストすることになった。そのパワーは実にパワフルでかつフラットなトルク特性だった。しかも、ノーマルでチューニングを施したHGKのエンジンよりも明らかにパワーが上回っていたのだ。トドロキモデルはこのテストでOSエンジンと提携することになった。
その後OSエンジンは国内で高性能が認められ、スタンダードエンジンとして定着していく。OSを搭載すれば誰でも安定したハイパワーを手に入れる事が出来たのだ。それはかつてのHGKも太刀打ち出来なかった。OSエンジンの登場でHGKエンジンは売れなくなり、とうとう事業を閉める事態までに発展した。OSレーシングエンジンの登場はそれほど驚異的だったのだ。

「トドロキモデル世界に名を馳せる」
国内でも京商と並ぶ強豪チームとなったチームフェニックス。ロードエースと言う実に実戦に強いモデルの登場で全国で活躍していた。そこに新たなターゲットとして第2回世界選手権にエントリーすることになった。
舞台はスイスのジュネーブ。ここでの戦いは、いつもの国内の大会とは違い世界との戦いだった。数多くの有力日本選手がエントリーする。各メーカーのサポートドライバー、実力派プライベーターなど日本の選手は世界にも通用する実力だったのだ。トドロキフェニックスチームも特に注目が集まった。
エースドライバーの石原選手が予選をトップで通過したのだ。世界中の選手がトドロキモデルのロードエースを注目し始め、フェニックスチームパッドクの周りは人だかりとなってしまうほどだった。鈴木氏は準決勝までに残れず、石原選手の助手として決勝に挑んだ。決勝レースでアクシデントは突然起こった。石原選手のロードエースにマフラートラブルが発生してしまった。実は世界選手権に参戦するに当たり、フェニックスチームは排気音の心配でマッコイ社のカンマフラーを急遽装備して挑んだのだ。マフラートラブルはマフラーとマニホールドを繋ぐシリコンパイプが外れたのが原因だった。しかもFRPプレートにマウントされたカンマフラーがネジを中心に回転してしまった。助手の鈴木氏はピットに戻った石原車を修復にかかった。ドライバーズスタンドの上からは石原選手が「すぐ直して早く出せ!」と叫んでいる。鈴木氏は外れたマフラーを見て直感的に判断した。「これでは、又すぐに外れるに違いない。はめただけではダメだ。しっかりと付け直す」ピットを出た石原車は次々と前車をラップするが、トップには届かなかった。5位となった石原選手はマフラートラブルさえなかったら世界チャンピオンだったに違いない。チームフェニックスとしても世界一の座を逃がしてしまい悔しい思いをした。石原選手はパドックに戻り鈴木氏に言った。「ベストメカニック賞だね」と助手としての勤めを称えた。鈴木氏自身は65位、緊張の連続で実力を発揮できず、初の世界選手権は惨敗に終わった。しかしロードエースの走りは世界的に有名になりチームフェニックスの実力も大いに認められた大会であった。

「正義のボイコット事件」
トドロキモデルの抱えるドライバーは国内のトップドライバーを揃えていた。そこに、テレビ番組でラジコンのレースを行うと言う話が迷い込んだ。鈴木氏は自慢のドライバー達と、このレースに参戦する事にした。そのレースはタミヤ模型の初の電動RCカーであるポルシェ934のレースであった。そのレースは小林亜星がゲストの・・そう、恐らく「びっくり日本新記録」と思われる番組だった。そして、始まったレースではチーム全員が好成績のタイムを出す。上位入賞は間違いないと思われた。このまま行けば行ける!と確信した時だった。チームメイトと同じヒートを走る少年のタイムが気になった。レースでは明らかにチームメイトが先にゴールしている。それなのに同じヒートを走るその少年のタイムは大分後にゴールしたのにもかかわらず上位に記録されている。タイム差ははっきりしているのに何故?その少年はこの大会を企画した模型店の息子であった。正しく少年のタイムは架空の記録だったのだ。こんなことがあっていいのか?
鈴木氏は主催者に抗議した。いくらなんでもこんな不正があってはレースにならないではないか?抗議は聞き入れてくれたのか?ところがその少年のタイムは修正されることは無かった。これはおかしい!レースではない、インチキレースじゃないか!鈴木氏はこのやり方に怒りを覚えた。こんなレースはやりたくない。やっても意味が無い、辞めよう。帰るぞ!チームメンバーを一人づつ説得してレース出場をボイコットする事にした。トドロキのドライバーは番組の撮影中に引き上げた。鈴木氏は公正なルールあってこそ皆が楽しめるのだ。今でもそう思っている。

「過剰投資そして・・・」
トドロキモデルもロードエースの活躍で売り上げを伸ばして行った。そして、次なるアイテムへと手を伸ばす事になった。タミヤの電動RCカーが発売されて以来爆発的にRCカーブームになる。特に電動カーは手ごろに楽しめる為少年にも取り扱える。トドロキモデルもタミヤ模型の成功を元に電動カーの発売に踏み切った。エンジンカーの経験を生かし、バランスよくメカを配置、トドロキモデルと言うブランドで行けるはずであった。しかし、キットの売れ行きは悪く、宿敵タミヤを負かすことは出来なかった。
その他、エンジンカーの経験を生かしオフロード車も手掛けた。当時のRCカーとしては先進的なメカニズムを持つ「4WD スペシャル」だった。このモデルは設計段階からの詰めの甘さがあり、出来上がった製品は重戦車になってしまった。4WDとは言え重量が性能を完全にスポイルされてしまい失敗作となる。ロードエース以降、新作のキットは振るわなかった。売れ行きは悪くせっかくの投資が回収できずに苦しんだ。時を同じくしてライバルの京商やアソシエイテッド又は外国製キットが勢力を伸ばしていく。トドロキモデルに陰りが出てきた。
そして設計をしていた武田氏が手を引き、エースドライバーの石原氏もヨコモへ移籍。フェニックスのメンバーも他へ流れていく。過剰投資と売行き不振がトドロキモデルの体力を奪ってしまった。

「最終モデル、ロードエース80」
トドロキモデルから武田氏が離脱し、その後の開発を残ったメンバーで行っていくことになった。すでにヨーロッパやアメリカの外国勢はチューンドサイレンサーを装備し、エンジンパワーの時代へと変化していた。トドロキモデルも次期ロードエースにチューンドマフラーを装備する為に開発をする。開発の中心は清史氏が行った。OSエンジンの側方排気に合わせたマニホールドのデザインに取り掛かる。試作段階ではリアオーバーハングにカートの様な形で、斜めにチューンドサイレンサーをマウントしテストを行った。その後、スペースの有効利用で車体の右側に排気するようにデザインする。エンジンのキャブレターを絶妙に交す絶妙な位置を見つけるのに苦労した。又チューンドサイレンサーもパワーとレスポンスのチェックを十分にテストをし決定。次期ロードエースとして「80」の市販を行った。全国のロードエースファンとしては待望のニューモデルとして活躍することになる。
そして、第3回世界選手権へ再びエントリーすることになる。前回とは違いチームフェニックスは大分縮小され、3名のみのエントリーだった。各国の選手は前回の石原氏の活躍でチームフェニックスが注目の的であった。しかし、力不足か世界選手権のコースのセッティングに苦労し惨敗であった。既に世界はサスペンションを装備したサスカーの時代へと移り変わっていたのだ。

「苦しむモデファイ」
ロードエースを更に早くする為、清史氏によるモデファイの試行錯誤が続いた。まずは、スライドキャブレターの開発だ。外国のエンジンには既にスライドキャブレターの採用が当たり前の様な時代になっており、国産のキャブレターとは開発の差が生じていた。トドロキモデルでは国内のマニアがスライドキャブをテストしている事を知り、実際に使ってテストを試みた。通称加速ポンプ内臓で実にパワフルでレスポンスの良さで市販を決断、オプションパーツとして発売した。
更に、外国製キットに当時の流行のように装備されていたのがデファレンシャル装置。トドロキモデルでは時代の流れに沿ってデフの採用を決めた。これはリミテッドスリップ機構を持ち、調整機構を持つ本格的なデフで、他社の設計による物だった。しかし、このデフには盲点があった。重量オーバーだ。ドライビングの容易さではアドバンテージがあった物の、そのデフ本体の重量がかなり重たい物であった。加速、減速、コーナリングの遠心力には不利に働いた。
その後、新しいコンパウンドのリアタイヤや、シャーシープレートの改良などモデファイを重ねたが、それ以上に他のメーカーの開発スピードが勝っていた。外国製メーカーはサスカー、京商は4WDと、時代はフラットパン2WDのオーソドックスな構成では勝てなくなってしまった。
ショーモデルではサスペンション仕様の試作プロトタイプも開発したが、トドロキモデルの開発はここで終わる事になる。

「王者トドロキモデル消滅」
既に次期ロードエースの開発に苦しむ頃、トドロキモデルに激震が走る。パーツ製作などを依頼していたメーカーに、トドロキモデルが乗っ取られようとしていた。キットメーカーとして活躍していたトドロキモデルも経営が弱体化し、苦しい状況になる。辛くも乗っ取りは避けられたが、メーカーとしても力は尽きた。
トドロキモデルはこの時に終わりを告げた。事業の最後に日、鈴木明氏は長年僚友として協力してもらった清史氏を車に乗せ自宅に送った。「清史さん。こんな事になってすまなかった」と謝ったが、清史氏は「まだまだ、自分はこれからですよ」と言ったのだ。それを聞いた鈴木氏は彼の言葉で人生の節目として勇気付けられた。

「引退」
トドロキモデルが消滅し、RCカーはサスペンションを装備するPBアルファー、SGコロンビア、デルタイーグル、サーパントクアトロ、アソシエイティドRC500などの外国製シャーシが大活躍するようになる。一方国産のメーカーは京商ファントム、101スーパースターの4WDの方式で好成績を収め、様々なシャーシーがサーキットを走っていた。鈴木氏もロードエースに京商のファントム4WD用パーツを流用して4WD化したシャーシを走らせていた。しかし結果は出ず、他人からは往年のワークスドライバーとして、その光景が痛々しく見えていたのであろう。
チームフェニックス時代の僚友であったODSの富田氏からPBをやってみないか?と声が掛かったのだ。このチャンスを物にする為、迷わずBPアルファーのドライブをすることに決めた。まったく違うタイプのフィーリングに戸惑いながらもレースに参戦。鈴鹿での全日本選手権で予選落ちを経験する。なんとも、この頃から実力を出し切っても目立った成績を残すことが出来なくなった。もはやドライバーとしてもこれまでか。
何時しかサーキットに足が向かなくなり、実質上引退となった。その後、RC界から遠ざかり長く携わったエンジンカーを見る機会は二度と無くなってしまった。

「その後」
模型関係の事業を辞めた後、トドロキモデルの建屋で、オートバイ屋を始めた。鈴木氏もオートバイ乗りであり、レースにも出場していたほどの腕の持ち主。この時のお客さんであったのが現在の奥さんだそうだ。ところが、数年後このオートバイ屋も閉める事になる。現在は普通のサラリーマンに転身して活躍いる。

左から、鈴木明氏、トドロキモデル社長鈴木氏(故人)、鈴木清史氏
RCのレースに勝ち始めた要因に、豊富な練習があった。
駐車場でのテスト風景
カートコースでRCカーを走らせていた
日本で始めてのRCレースにて優勝した時の鈴木氏
国立劇場の裏にて
大阪の万博でのレースで優勝
左端が鈴木氏、ゼッケン49は富田氏
名古屋でのレース
操縦台左から石原氏、鈴木清史氏、鈴木明氏、杉野氏
助手で腰に手を当てているのは中京地区の近藤氏
トドロキロードエースによるレース参戦
フェニックスカラーのボディー
カートコースを使用してRCレースを開催していた。
左から2人目のグレーのセーターが鈴木氏
まだ常設サーキットが無い頃のレース風景
当時のスタート風景
フォーミュラーカーも混走していた
左が鈴木氏
フジスピードウェイーで行われていたレースでプロポを握る鈴木氏
ワンスティックプロポ時代のレースにて参加選手と記念撮影
下段中央が鈴木氏
京商グランプリのレース風景
操縦台はビール箱に立つ。右端が鈴木氏、その脇に立つのが富田直美氏。
望月氏、桂氏の顔も見える。
左から
予選トップの近藤勝則氏、優勝の鈴木明氏、そして望月庄一氏、滝雄二氏、鈴木清史氏、富田直美氏、石原直樹氏
レースでの車検風景
フィリピンに招待された時のトドロキモデルファクトリードライバー3選手
左から、武田訓政氏、石原直樹氏、鈴木明氏
ラジコンの大きなイベントに招待された日本代表3選手は地元の選手と交流レースを行った。
フィリピンでのオープニングセレモニー
フィリピンにて、手にしているのは記念Tシャツ
レース時のタイヤの選択をする鈴木氏
スターターを手にしてエンジンを掛ける鈴木氏
当時はスターターモーターを直接フライホイールに押し当てて掛けていた。
プラグヒートは大型電池でヒートする。
スイスでのスナップ
左から水島登氏、鈴木清史氏、鈴木明氏、石原直樹氏、桝田氏
ロードエースのポスターの前で
世界選手権で大活躍したお蔭で世界中の注目を浴びたトドロキモデル
日本国内でも有名なRCカーメーカーに成長した。
SPLのレースで高速コーナーを走る鈴木氏のロードエース
鈴木氏のロードエース
ボディーはKIR
ナンバーの22は初期のエキスパートクラスで採用されていた登録ナンバー
鈴木氏はこのNo.22にかなり愛着を感じていた。
鈴木氏のロードエース
ボディーはGRD
モデルショーにてトドロキファンの方と記念撮影
ロードエース80
鈴木氏は走る物が好きでレーシングカートも楽しんでいた。
RC仲間とオートバイのツーリング
左から鈴木氏、田沼氏、道岡氏(故人)、剣持氏
オートバイも鈴木氏の趣味
モトクロスもやっていた鈴木氏
オートバイのオンロードレースもやっていた鈴木氏
とにかく、モータースポーツ大好きな鈴木氏は、早く走る事を求めていた。
オートバイのツーリングにて
左から2番目が鈴木氏、右から3番目は元RCワールド編集長の山崎氏
鈴木氏と山崎氏は模型を通じて当時から交友があった。
RCレースの仲間とツーリングに出かける事もあった。
右はサーパントクアトロ改で活躍していた道岡氏(故人)