「RCとの出会い」

富田直美氏のラジコンカーとの出会いは、今は無きトドロキモデルだ。
大学生だった富田氏は、たまたま等々力を歩いていたら、トドロキモデルがあり、スロットカーサーキットを運営しているのを目にした。以前にスロットカーやった事があったので、懐かしいなと思いトドロキモデルでスロットカーを再開した。
トドロキモデルは、スロットカーの究極のドライバーの連中が集まる有名なコースがあり、多くのスロットカードライバーが競っていた。

そのトドロキモデルを経営していた鈴木3兄弟が、コースの中でラジコンカーを組み立てていた。
富田氏は、鈴木氏の作るRCカーに興味があった。
しかし、苦学生だった事から、手軽なスロットカーの世界から、パーツが10倍近い値段のするRCカーは出来なかったのだ。
そんな時、トドロキモデルの模型仲間が、RCカーをやらせてやるよと言う事になり、一式を貸してもらった事が、富田氏のRC初体験となる。
そのRCカーを自宅前の道路で走行させた。雨の中での走行だったが思い立ったら行動に出る富田氏は初走行を
難なくこなしてしまう。その時にRCを操る事がこんなに楽しい物だったのか知る事となった。
RCカーの面白さを知った時に、思わぬスポンサーが現れた。RC飛行機仲間だった近所の畳屋さんが、トドロキモデルのパーツを付けた京商のRCカーを富田氏に与えた。
由良氏の作成したFRPボディーにトドロキ製クビレシャーシのモデルで、レースに出ようと決心した。
鈴木明氏と共に、狭山のレースに行くことになった。

その日は、A級B級ライセンスの認定試験がある日だった。当時は実車の様にライセンスを作ろうとしていた時で、初めて走るレースでタイム順でA級に合格、金バッチをもらう。
そしてレースでは2位に入賞。初レースで驚異的な成績をおさめた。
その頃の選手は、鈴木明、首藤、桐生、小田、近藤など国立劇場でのレースから活躍する選手が居る中での好成績だった。
勝因はスロットカーの影響でスロットコントロールがうまく、ピタッとトレースする事だった。

その後、鈴木明氏は常にトップを走っており、富田氏は2位や3位と常に上位を占めるようになっていた。
富田氏の借り物の車での好成績を見て、トドロキモデルの社長の鈴木守氏は、良かったらサポートするよとなった。
そして、レースでの好成績のお蔭で、日本では最初にスポンサーを受けたRCドライバーとなる。
トドロキモデル近くの多摩川に公園があり、お客さんのRCカーを走らせる溜まり場があった。
公園では、練習の為に多くの仲間が集まっていた。
その場所では、鈴木明氏と富田直美氏がRCカーの走らせ方、作り方を教えていた。レースで上位を走る両氏から、直接指導される事でレベルアップが著しいと有名だった。
徐々にレベルの高いドライバーが増え、仲間をレースに誘うようになる。

その後、トドロキモデルでのスペシャルオプションパーツを数々テストを行い、レースでの実戦使用していた。




「あれが武田か!」

当時のトドロキモデルのスロットカーコースには、ある有名な選手がいた。
スロットカーは、シャーシを自作するのがトップドライバーの証だった。
有名選手の作成したシャーシは、レースで好成績を収め、中古のスロットカーを持っているだけでニヤニヤする様なすばらしい物であった。
コースの周りでは「訓政」「訓政」と噂があがる選手がいた。「武田訓政」と言う高校生だ。
富田氏も「訓政」と言う名前を聞いてはいたが、いったい誰なのかは知らなかった。
ある時、「あれが武田訓政だよ」と言われた富田氏が見たのは、カウンターにいた武田訓政だった。
彼はスロットカーコンストラクターとしては天才の領域で、トドロキモデルのエースドライバーであった。
ピアノ線とラジオペンチを武田氏に渡すと、綺麗に真直角の四角を作る事が出来る事や、フレームハンダ付けは、外から何処をハンダ付けしているか見えない抜群の仕上げと、スロットカーシャーシ作りには凄腕を見せたと言われる。
時々しか店に姿を現さない為に、みんな口も利けない天才カリスマ選手であった。




「あの武田をRCへ引きずり込む」

訓政にラジコンを作らせたら、さぞかし凄い物が出来るのではないかと思っていたのが、鈴木兄弟と富田氏だ。
一回だけ、武田氏にラジコンを多摩川の練習場で走らせて見た事があった。
勿論、武田氏はラジコンの操る腕は無かったが、本人は、こんな作りのラジコンカーは嫌だと言う。武田訓政の言った嫌だと言ったのは、当時のRCカーがいかに偶然の塊で作られている事が嫌だったのだ。
彼は、この出来事をキッカケに、RCカーを作り始めた。
富田氏は、実に武田訓政と言う人間を、RCに引きずり込むシナリオを前から考えており、見事成功させた。
この役は、トドロキモデルの中で、富田氏の仕事だった。




「トドロキモデルの最強オリジナルカーを」

武田訓政の作るRCカーは独創的なものだった。
最初のRCカーは、後にロードマックスの原型となる物で、独特の構造を持つシャーシ構成だった。スロットカーでは、日本一の腕を誇っていた武田氏は、RCカーをコントロールする事は上達せず、最初はBクラス程度の腕前であった。
武田氏自作のRCカーは、スムースな走りを披露して周りからの評価は良さそうだ。
当時、富田氏は、鈴木明氏と共に、京商のRCカーをトドロキモデルのオプション仕様として走らせていたが、武田訓政が作る自作RCカーをドライブしてみた。
案の定、武田氏の作ったシャーシは、抜群に良く走る物だった。
この時、トドロキモデルのオプションパーツではなく、自社のフルキットを作ろうと決まった。
武田訓政氏の設計したこのキットは、今の1/12EPカーでは一般的な3ポイントサスペンションの原型となる構造で、捩れを積極的に使い、リンクやアンチロールバーまで装備する、請った作りをしていた。1/8レーシングカー・トドロキ・ロードマックスの誕生だった。




「ファクトリーチーム・フェニックスをまとめる」

トドロキモデルに集まるRCマニアで練習をする中、仲間内で速い連中の集まりを作ろう、そしてレーシングチームを作ろうという事になった。
トドロキモデルからは鈴木明、メンバーのまとめ役に富田直美、デザイン担当は武田訓政、その他、ドライブセンス抜群の石原直樹、桂伸一、鈴木清史、杉野、小野、8名がチームメンバーとなる。

チームの名前は「フェニックス」。日本で最初のRCカーファクトリーチームが誕生した。
後にも先にも、このメンバー8名のみ正式なフェニックスを名乗るチームメンバーだ。
このチームに課せられた使命は、優勝は勿論、上位独占。負ける事が許されない。どんなレースでも優勝するぞ、と言う意気込みがあった。
チームメンバーの中で、誰が今日のレースを優勝をするのか?チーム内でも争っていた。
この中でも、石原には簡単に勝たせないと富田氏は考えていた。石原氏は、先輩ドライバーになかなか勝てない。石原直樹氏は、悔しさから、その後の活躍に弾みをつける事となる。

フェニックスの活躍は凄まじく、各地で行われるRCレースに優勝する常勝チームとなる。会社員として活躍していた富田氏は、トドロキモデル非常勤役員として参画、他のメンバーは、トドロキモデルの社員となり、トドロキモデルを運営、RCキットのメーカーとして軌道に乗る。
RCレースでは自社のシャーシがファクトリードライバーの手によって優勝を決める。
実に気持ちのいい活動をしていた。





悔しい初めての世界選手権」

トドロキモデルとして始めて参加する世界選手権、スイスジュネーブで行われるこの大会は、第2回の大会となった。
実は、第1回の世界選手権となったアメリカの大会は、IFMERが正式に誕生する前の大会で、日本から参加した選手は、滝、望月の2選手だったが、国内に、この大会の参加募集が掛からなかった為に、世界選手権として本当の意味では認められていなかった。
ジュネーブの大会が、世界中の選手を集めて開催した始めての世界選手権だった。
トドロキモデルでは、ロードエースをモデファイしてこの大会に参加、石原選手が見事に予選1位を獲得する。
ファクトリーチームの活躍はすばらしい物であったが、失敗もあった。
タイヤだ。日本から持ち合わせたタイヤが現地のコースにマッチしなかった。急遽ホイールからタイヤを剥がし、アソシエイテッドのタイヤを接着した。
ホイール単体が無かったのでその作業は簡単ではなかった。だが、現地での努力のお蔭で、好成績を収める事が出来た。
決勝での石原選手は惜しくもマフラートラブルで後退してしまったが、実は後続のアソシ勢が何度も追突したのが原因だった。
優勝が確実視されていた石原選手にとっても、フェニックスにとっても、悔しい大会であった。