珠光寺は、明治以降無住時代が続いたので寺の歴史を示す資料が、ほとんどありませんので、明確なことは不明です。
江戸時代に開山されたと、考えられています。
現在は、鎌倉市の圓覚寺が本山ですが、韮山の国清寺が本山でした。国清寺は、関東管領の上杉兼顕公が、応安元年(一三六八年)に中国杭州の国清寺をモデルに、南北朝合戦で戦死された多くの霊魂をまつり、鎮めるために、韮山奈古屋の丘陵地に七堂伽藍の立ち並ぶ大寺院を建立し、圓覚寺住持の佛真禅師を拝請し、開山として招き、伊豆の臨済禅の一大拠点としました。それから以降多くの修行僧が集まり、修行していました。
中国の杭州天目山の幻住庵に、中峰明本禅師が住し、権威や形式にとらわれない、自然の山野の中で、庵を作り、悠々自適の中で自己研明に努力し、修行に専念し悟りを開いていく禅宗の一派を広めていました。
日本僧の遠渓祖雄禅師の弟子となり、修行し印可を得て、帰国し正中二年(一三二五年)に丹波の国に、瑞岩山・高源寺を開山して幻住派を伝導いたしました。室町時代になると、鎌倉にも幻住派の高僧が住し国清寺も、桃山江戸初期には、幻住派が盛んになりました。
珠光寺の開山となった秋岩菊禅師も、その一人であったと考えられ、山林が繁り自然が豊かである平沢の地にこられ、草庵を建て、座禅専一に修行されたが、文禄三年九月(一五九四年)に遷化され、弟子が伝承していたと考えられます。
江戸幕府は、八宗承伝を禁じ、宗教統制を実施し、寺院の本末制を確立しました。それより数十年後の寛永十七年(一六四〇年)に島原の乱が平定されるとキリスト教を禁止すると同時に、全てに人民はどこかの寺の檀家になるよう、宗門人別帳を作り報告させました。平沢地区の山岡氏や一部の人々が秋岩菊禅師が開山した珠光寺の檀家として申請したものだと推察されます。珠光寺で始めて葬儀が実施されたのは、明暦二年(一六五六年)で、秋岩菊禅師が遷化されてから、六十二年後であった事も推理の参考です。
珠光寺は、海岸より少し高い台地に有り、北には四季おりおりと姿を変える富士山を仰ぎ見ながら、駿河の海を眼下に眺める風光明媚な地域に有り、独座大雄峰の境涯になりえたのではないか、と思われます。
住職 加納 光雄
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