韮山の史跡ゆかりの人物

韮山の史跡に関係する歴史上の人物の簡単な紹介です。


2005/2/12 修正

池禅尼(いけのぜんに)

平清盛の継母にして、韮山の蛭ヶ小島を史跡にした恩人。平治の乱にやぶれ囚われの身となった源頼朝は、処刑のため京に送られたが、池禅尼が清盛に助命を嘆願したため、頼朝は伊豆流刑に減刑となり、韮山の蛭ヶ小島へ流されることになった。

江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん):1801〜1855

江川家は、江戸時代の伊豆韮山の世襲代官で、太郎左衛門は江川家当主代々の名前。反射炉を建造したのは36代の太郎左衛門で、諱は英龍、号は坦庵。砲術研究と教育、ペリー来航に対する海防政策、反射炉・船の建造など新技術・新思想の導入に数々の足跡を残した。

・韮山反射炉の建造:1854年に建造に着手したが完成前に病死。

・パン祖:保存食としてパンを研究

・種痘の奨励 :いちはやく領内で実施し種痘を奨励

・韮山塾:高島秋帆に砲術を学び、1842年から塾を開き砲術を指導

・雷管銃:従来の火縄銃にたいし新型の雷管銃を国産化

・韮山笠:雨に濡れても平気な韮山笠など軍装を創意工夫 改良した。

・「回れ右」などの軍隊号令の日本語化

・品川台場の建造:幕府の勘定吟味役格に任命され品川台場の建造にあたった。

・洋式帆船の建造:駿河湾で沈没したロシアの軍艦ディアナ号の代りに戸田で日本初の洋式帆船を建造

平兼隆(たいらのかねたか)?〜1180

源頼朝が伊豆韮山に流されていたときの伊豆地方の豪族・役人。(屋敷が今の韮山町山木にあり、山木判官と呼ぶ。) 頼朝旗揚げのさい、第一の標的にされと討たれた。墓が韮山山木の香山寺にある。

北条時政(ほうじょうときまさ):1138〜1215

北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。1189年頼朝の奥州藤原氏との戦いの勝利を祈願して伊豆韮山に願成就院を建立。頼朝の死後1203年執権となり鎌倉幕府の実権を握るが、その後息子の義時・娘の政子との対立に破れ引退。墓は願成就院にある。

北条政子(ほうじょうまさこ):1157〜1125

北条時政の長女として韮山に生まれる。生地は「政子産湯の井戸」として今も韮山に残る。蛭ヶ小島にながされていた源頼朝の妻となり、鎌倉幕府樹立・その後の基盤強化に並の妻以上の実力を発揮。頼朝の死後は二代将軍頼家・三代将軍実朝の母として、実朝が死ぬと尼将軍として幕府の実権を握った。強い女の代表とされる。

源頼朝(みなもとのよりとも):1147〜1199

鎌倉幕府を創設。1159年平治の乱に敗れ捕えられたが、池禅尼に助けられ1160年(頼朝14才)伊豆韮山の蛭ヶ小島に流された。以来挙兵まで、韮山に雌伏すること20年。1180年以仁王(もちひとおう。後白河法皇の皇子)の平家討伐の令旨をうけこれを旗印に挙兵。第一の目標を山木判官平兼隆とし、1180年8月17日韮山山木の平兼隆の館を夜襲。以降は鎌倉を本拠とし、壇ノ浦の戦いなどをへて1192年武家政権・鎌倉幕府を樹立。

文覚(もんがく):1139〜1203

平安末期の真言宗の怪僧。古い由緒ある寺(神護寺)への寄進を迫り後白河法皇の怒りに触れ、1173年から1178年まで伊豆韮山の奈古谷にながされた。同じ時期伊豆韮山の蛭ヶ小島に源頼朝が流されており、頼朝に旗揚げを迫った。文覚が護摩を炊いたと言われる巨石が韮山奈古谷の毘沙門堂にある。

八重姫(やえひめ)

源頼朝が伊豆韮山に流されていたときの伊豆半島伊東の豪族・伊東祐親の娘。頼朝が北条政子と結ばれる前に関係し、 千鶴丸という子をもうける。これを知った祐親は平家を恐れ、頼朝を殺そうとしたが頼朝は危うく難を逃れ韮山に逃げ帰った。八重姫は、頼朝に会おうと韮山まで来たが、今は政子のもとにいる頼朝に会うことができず、狩野川の支流の古川に身を投げて死んだ。侍女は八重姫の実家の伊東に戻る途中、大仁田中山にて殉死。供養塔が古川沿いの韮山中条・真珠院にある。



戻る