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1 「伊豆の踊子」と天城峠(天城トンネル)

 

 もともと伊豆は多くの文人たちに愛された土地であるが、中でも川端康成の「伊豆の踊子」に描かれた主人公と踊り子との出会いと別れによって、八十年の時を経た今でも人々の心には、伊豆こそは文学の里であるという意識は強く残っている。この作品を読んだ多くの若者たちが、主人公と踊り子たちのおもかげを求めながら天城峠を越えていった。

 川端康成は一八九九年大阪に生まれる。(来年は川端生誕百年であり、また多くの記念祭が催されることであろう。)父は康成二歳で、母は三歳で結核で亡くなり、祖父母の手で育てられるが、七歳で祖母、十歳で姉、そして唯一残った肉親の祖父も十五歳の時に失い、天涯孤独の身の上となる。このことは川端康成自身の人格形成に深く関わっており、そのために作者の分身とも言える作品の主人公は「(自分自身の心は)孤児根性で歪んでいる」と表現されてもいる。

 道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺かすりの着物に袴をはき、学生かばんを肩にかけていた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことであった。

 「伊豆の踊子」の冒頭部分である。主人公は修善寺で初めて旅芸人たちに出会い、湯ヶ島の湯本館に泊まった夜、一行の中の娘が踊るのを、一心に見ていたのであった。天城峠を彼ら一行と再び会うことを期待しながら「私」は足を早めるのであった。

 ようやく峠の北口の茶屋にたどりついてほっとすると同時に、私はその入り口で立ちすくんでしまった。あまりに期待が見事に的中したからである。そこに旅芸人の一行が休んでいたのだ。

 一行の中の踊り子は十七歳くらいに見え、りりしく、美しい顔立ちをしており、「私」こと川端は彼女の美しさに心をひかれる。「私」は踊子の好意に触れることで、しだいに踊子への好意の傾きが強まってゆく。

 暗いトンネルに入ると、冷たいしずくがぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた。

 この出口の明るさはこれから始まるだろう踊り子との交流に対する期待であり、自らのゆがんだ性質を自覚する主人公にとっての救いの光なのでもある。川端康成の代表作「雪国」の冒頭にもトンネルは描かれ、文学的世界へと人々を誘う通過点として描かれている。また陶淵明の書いた「桃花源記」に描かれたいわゆる桃源郷への入り口もトンネルであった。作品「伊豆の踊子」の足跡を追うのならば、舞台となった宿なども現存してはいるが、その文学的価値から考えると、この 旧天城トンネルこそが、研修地としては最もふさわしい。

 そんなある夜、踊り子の一行は「私」の宿の前の料理屋で宴会の席で芸を披露することになる。次第に宴会は乱れ始め、踊子の叩く太鼓の音も乱れがちになる。私は、踊子の今夜が汚されるのではないかと悩ましく思う。その翌朝のことである。

 ほの暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出してきたかと思うと、脱衣所のとっぱなに川岸へ飛び降りそうな格好で立ち、両手をいっぱいに伸ばして何かを叫んでいる。手ぬぐいもない真っ裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけた喜びで真っ裸のまま日の光の中に飛び出し、つま先で精一杯に伸び上がるほどに子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。頭が拭われたように澄んできた。

 「私」の妄想や俗情はきれいに拭われ、心が洗われたかのようにきれいになってゆく。この踊り子の、汚れのないみずみずしいさわやかさに「私」の心は救われるのだが、この踊り子の清新さこそ、以来伊豆のイメージとなって、清らかな青春のシンボルの土地として、老若男女に関わらず天城越えをこころみさせる原動力となっているのだ。この時より、「私」の踊り子に対する気持ちは、男女の恋愛感情というよりも、性や年、社会的地位を超越した清らかな感情となってゆくのである。

 湯ヶ野から下田へ越える山道で「私」に、踊り子たちの声が聞こえる。

 しばらく低い声が続いてから踊子の言うのが聞こえた。「いい人ね」「それはそう、いい人らしい」「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね。」私自身にも自分をいい人だと素直に感じることができた。晴れ晴れと目を上げて明るい山々を眺めた。瞼の裏がかすかに痛んだ。二十歳の私は自分の性質が孤児根性でゆがんでいると厳しい反省を重ね、この息苦しい鬱屈に耐えきれないで伊豆の旅に出ているのだった。だから、世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、いいようなくありがたいのだった。

 「私」は将来が約束されたエリートである。それに比べ、踊り子たちは社会的には最底辺の人々である。その踊り子によって、私の心はこの上なくいやされる。川端は自分の生い立ちに対して大きな負い目、コンプレックスを持ち続けていた。その川端にとって「いい人ね」という踊り子の言葉はさまざまな重みをもって響いたことであろう。

 その後、下田にて、踊り子との無言の別れを果たした「私」は「美しい空虚な気持ち」を獲得し、他人に対して素直な好意を示し、他人からの好意を素直に受け止めることができるようになった自分を自覚するのであった。

 近代日本を代表する青春文学である「伊豆の踊子」は何度も映画化された。それらのテーマは主人公「私」と踊り子との恋愛として描かれているのだが、実際の文章を読むと、もちろん淡い恋愛感情が底流に流れてはいるが、男女、貴賤を越えた心の交流こそ主たるテーマなのだと言えよう。この心の交流のさわやかさは、明るく開放的で素朴な伊豆の風土と重なってもいる。今回の研修によってこの伊豆の風土というものを体で感じていただくことができたならば、望外の幸せである。

2 昭和の森伊豆近代文学館と井上靖「しろばんば」

 この文学館の中心は、井上靖である。沼津市には井上靖文学館もあるが、質、量ともにこちらのほうが優れている。展示もわかりやすく、シルクロードコーナーを設けたり、生家を移転したり、なかなかの充実ぶりである。井上靖は正確には伊豆の生まれではなく北海道の産なのだが、彼の心の中のふるさとといえば、まぎれもなく伊豆湯ヶ島なのであり、私たちも郷土の作家として親しんでいる。

 井上靖の自伝的小説「しろばんば」に描かれている彼が暮らした土蔵の二階を模した展示場にこのような詩が展示されている。

 地球上で一番清らかな広場/北に向かって整列すると遠くに富士が見える/回れ右すると天城が見える/富士は父、天城は母/父と母が見ている校庭でボールを投げる/誰よりも高く、美しく、まっすぐに、天にまで届けと、ボールを投げる。(「ふるさと」)

 井上靖は作品において、ふるさと天城湯ヶ島の自然と人情を描き、素直にふるさとを愛し、またふるさとの人々からも敬愛され続けてきた。石川啄木、室生犀星、萩原朔太郎、太宰治らがふるさとに対して憎しみと、屈折した断ちがたい愛着をもって自己の文学を築き上げていったのと対照的に、井上靖はのびやかにふるさとを賛美した。しかしながら、軍医の父にしたがって各地を転々としていた家族から一人離れて、湯ヶ島で血のつながりもない曾祖父の愛人であった「おかの婆さん」(「しろばんば」においては「おぬい婆さん」)と二人で土蔵の二階で過ごしたという特殊な経験から考えると、湯ヶ島で少年時代を過ごしていたころの靖の心には言いしれぬ寂しさが宿っていたことが推測でき、「しろばんば」「あすなろ物語」「夏草冬涛」などの代表作を丁寧に読むと、健康で前向きな生きる姿勢の中に、常に醒めた部分を読みとることもできる。

 その頃と言っても大正四五年のことで、いまから四十数年前のことだが、夕方になると、決まって村の子供たちは口々にしろばんば、しろばんばと叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら、夕闇のたてこめ始めた空間を綿くずでも舞っているように浮遊している白い小さい生き物を追いかけて遊んだ。(「しろばんば」冒頭)

 「しろばんば」は五歳から小学校卒業までを描いた自伝的作品であり、題名はこの虫からとっている。こうした虫を追いかけて遊び、成長していった少年時代の喜びと悲しみを描いた作品である。そこには、明るい伊豆の自然と、素朴な人情がのびやかに描かれている。

 「しろばんば」の主人公洪作は、曾祖父の愛人おぬい婆さんとともに、土蔵の中に住んでいる。周囲のものからは人質だと言われながらも、おぬい婆さんの深い愛情の中で、洪作は十分満足すべき生活を送っている。母七重が洪作を取り返そうとしても、洪作自身がおぬい婆さんとの生活を望む。天涯孤独なおぬい婆さんの生き様の中から深い人間観察眼を得てゆき、淡い恋を初めとした、さまざまな経験を通し、彼の視野は広まり感じ方も考えも厚みを増していった。そして、最後におとずれるのが、おぬい婆さんの死である。それは洪作が父母のもとへ旅立つことでもあった。洪作はこの世に一人取り残されてしまったような気持ちと、同時にこれで一人になれたといった解放感も味わう。それは少年時代に終わりを告げるというセンチメンタリズムであり、青年時代への一歩を踏み出そうとする不安と希望の表れなのであろう。「しろばんば」は洪作少年の精神的成長の物語なのである。

 後年、靖は「おかの婆さんに育てられなかったら、僕は小説家にはなっていなかったろう」と述べている。この言葉は、はからずも靖自身の少年期の寂しさの告白でもある。一人置き去りにされる寂しさから、何事にも酔えない孤独な、クールな男の性質を形成し、周囲を傍観者的に見据える小説家の目を靖は着実に育てていったのである。

 あすは桧(ひのき)になろう、あすは桧になろうと一生懸命考えている木よ。でも永久に桧にはなれないんだって。それであすなろうと言うのよ。

 やはり、天城を舞台とした自伝的小説「あすなろ物語」の中で、祖母りょうと二人暮らししている小学校六年の鮎太。そこへ、冴子という不良じみた十九歳の美しい娘があらわれる。冴子は家の庭に立っている翌桧(あすなろ)の木を見て鮎太に言う。それにちなんで、伊豆近代文学館の井上靖宅の玄関にあすなろの木が植えられている。

 井上靖にしても、川端康成にしてもその幼少の生育歴に暗く寂しい一面が影を落としている。そのような人々の心を伊豆は癒し続けてきた。伊豆を訪れる文学者が求めていたのは、「心の癒し(いやし)」に他ならない。太宰治しかり、梶井基次郎しかりである。通俗を承知であえて表現するならば、伊豆とは「天国に一番近い場所」であったのだろう。成長の過程で傷ついた心をいやし、そして再生させる聖地なのである。けして、現在のドライブにうってつけの観光地なのではないのだ。

3 伊豆近代文学年表

伊豆近代文学年表
明治30年 1897 1月 尾崎紅葉、「金色夜叉」を読売新聞に連載
明治32年 1899 6月 川端康成、大阪に生まれる
明治34年 1901 2月 梶井基次郎、大阪に生まれる
明治40年 1907 5月 井上靖、北海道に生まれる
明治41年 1908 11月 井上靖、旭川より天城湯ヶ島町に移住
明治43年 1910 8月 夏目漱石、修善寺菊屋旅館にて吐血、仮死
明治44年 1911 1月 岡本綺堂、「修善寺物語」
大正7年 1918 10月 川端康成、最初の伊豆旅行、以降毎年訪れる
大正9年 1920 8月 若山牧水、沼津に移住
大正15年 1926 1月 川端康成、「伊豆の踊子」
昭和2年 1927 1月 梶井基次郎、湯ヶ島に転地療養
昭和3年 1928 9月 若山牧水、没(17日)
昭和7年 1932 3月 梶井基次郎、没(24日)
7月 太宰治、沼津に滞在
昭和15年 1940 7月 太宰治、湯ヶ野福田家に滞在
昭和22年 1947 7月 太宰治、「斜陽」を沼津で執筆、新潮に連載
昭和23年 1948 6月 太宰治、没(13日)
昭和24年 1949 10月 井上靖、「猟銃」執筆
昭和25年 1950 2月 井上靖、「闘牛」で芥川賞受賞
昭和28年 1953 1月 井上靖、「あすなろ物語」連載
昭和35年 1960 1月 井上靖、「しろばんば」連載
昭和39年 1964 9月 井上靖、「夏草冬涛」を産経新聞に連載
昭和43年 1968 1月 福永武彦、「海市」
昭和47年 1972 4月 川端康成、没(16日)
平成元年 1989 3月 吉本ばなな、「TUGUMI 」
平成3年 1991 1月 井上靖、没(29日)
平成10年 1998 7月 第三回吉商伊豆文学散歩開催