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吉商富士文学散歩 (以下は平成8年夏に行われた文学散歩の資料である)

1 芭蕉の句碑 (源太坂)

・目にかかる時やことさら五月富士

(五月という季節は、古典文学においては「梅雨」の季節である。「五月雨をあつめてはやし最上川」「五月雨の降り残してや光堂」に見られるように、本来の五月は雨が降り続き、富士の鑑賞など望むべくもない。だからこそ、五月富士にお目にかかる時にはことさらな(特別な)思いで仰ぎ見ることだ、という内容。「伊勢物語」にある一節「(富士の山は)五月のつごもり(下旬)に、雪いと白う降れり……」とあることを受けて、雪が所々に残っている富士の美しさを強調してもいるのだろう。)

2 芭蕉の句碑 (伝法・カンカン堂)

・御命講や油のやうな酒五升

(解説看板には「ごめこう」とあるが、「おめいこう」「おみょうこう」とも読む。冬の季語で、日蓮上人の命日に行われる行事を指す。陰暦十月八日〜十三日に行われ、「御会式(おえしき)」という名で親しまれている。「南無妙法蓮華経」という題目を唱え、大提灯を担いでの行列が営まれたりしたらしいが、その名残として、句碑の隣に、「南無妙法蓮華経」と書いた、「題目塔」が建立されている。

 さて、「油のような酒」とは「油のように濃く、とろっとした、水っぽくない美酒」を意味する。実は、日蓮上人が何かの折りに、仏様に対して食べ物や、お経をお供えした際に、まさしく「油のような酒五升」を備えたという手紙が残っている。そのことを念頭において、「日蓮上人の命日である今日、日蓮上人が仏に対して美酒を五升お供えしたように私たちも、日蓮上人に対して美酒を五升、お供えしよう」という意味の句である。この地でこの句が読まれたというわけではなく、御命講を記念して、碑を建立したのだと考えるべきであろう。)

3 芭蕉の句碑 (平垣公園)

・一尾根はしぐるる雲か富士のゆき

(富士山を仰ぎ見ると、尾根に雲がかかっている。その雲の下にはきっと、冷たい氷雨が降っていることであろう、という歌意。中腹に雲をいただいた雄大な富士の様子が歌われている)

4 芭蕉の文学碑(野ざらし紀行) 〔富士市民センター〕

                                この川の急流のよ 

富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の哀れげに泣くあり。この川の早瀬にか

うな、世の中の荒波に耐えることができず、はかない命(の尽きるのを)待つだけだ

けて、浮世の波をしのぐにたえず、    露ばかりの命       待つ間  と捨

      萩に(冷たい)秋風が吹く(ように) (捨て子の命が) 今夜   散る

て置きけむ、小萩がもとの秋の風、               こよひやちるらん、

   しおれるのだろうか   たもと         通る

あすやしほれん     と、袂  より喰ひ物投げてとほるに、

 ・猿を聞く人捨て子に秋の風いかに 

 どうして  お前は                    (そうではない)

 いかにぞや 汝  父ににくまれたるか、母にうとまれたるか。       父はな

   にくむ                 ただこれは運命であって お前の運命

んぢを悪む にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、    汝が性

 運のなさ

のつたなきを泣け。

 <猿を聞く人捨て子に秋の風いかに>

(猿の悲しげな鳴き声は、昔から詩人の心を打ち、漢詩によく読まれているが、そのような心を持った人々は、今日私が目の前にしている、冷たい秋風に吹かれているこの捨て子に対して、どんな気持ちになるのだろうか、という意味。「みな、お前の天命である」という言葉は、豊かな平成時代に住む我々の感覚からすれば、少々冷たい割り切り方のような気がするかもしれないが、「野ざらし(行き倒れ)」を覚悟して旅を続ける芭蕉の姿を現代のヒューマニズムの視線で見ることは無理であろう。)

5 万葉集の歌碑 

A・田子の浦ゆうちいでて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

B・田子の浦にうちいでて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

 この非常に有名な歌には、二つのバージョンがある。もちろんどちらも「赤人」作には間違いない。Aは万葉集にある形であり、Bは藤原定家が「新古今和歌集」に取り入れた時の形である。恐らく定家自身が、鎌倉時代の作風に合わせて、手を入れたのだと考えられている。

 さて、Aの歌に描かれた富士と、Bに描かれた富士の違いは何だろうか。Aの歌に描かれた富士は、長歌から主に読み取ると「神々しい」「高く尊い」「日や月、雲の行く手をさえぎり」「季節の運行をも超越している」……という、いわば「神秘の山」である。半ば宗教的な神々しさを持っている点が強調されている。

 一方Bの歌ではどうなのだろうか。特に「白妙」という語に注目したい。この「しろたへ」という語は「雪」に関する枕言葉であるが、本来的な意味は「白い服」である。つまり、このBの歌に描かれている富士は「白い服を着ているような」という形容がなされており、それも女性を連想させるかのような優美なイメージである。

 平安時代から鎌倉時代にかけて「八代集」という八つの歌集が天皇の命で作られた。これら歌集は日本人の美意識の原点とされるような重要な作品群であるが、この「八代集」の中には「富士」が読まれた歌が二十九首ある。もちろん、Bの歌を含んでいるが、この二十九首中、二十首以上の歌において、「富士山」は「恋」の象徴として描かれているのである。噴火を繰り返し、噴煙を吐き続ける様子は、恋の「思ひ」(熱情)の象徴として読まれ続けてきたのである。そのことを念頭においてBの歌を読み直してみると、やはり優美で、流麗な富士が再認識されてくることであろう。

 Aに読まれた雄々しく、神々しい万葉人の富士と、Bに読まれたたおやかで、優美な平安の人々の富士と、皆さんは、どちらの富士にひかれることであろうか。

6 源太坂

 平家物語に描かれる「富士川の合戦」の舞台として、富士市にはゆかりの場所がいくつか見られる。主なものは、「呼子坂(よぶこざか)」「平家越」「和田川」そして、この「源太坂」である。

 「源太坂」に関しては、詳しくは、説明板を呼んでいただけば分かることであろうが、源頼朝の二人の武者が同士討ちを始めようとした際に、佐々木四郎の機転で梶原源太の気持ちを和らげ、その場を収めたという故事による。この後、佐々木は宇治川において、梶原源太と手柄争いを演じ、見事に「先陣(一番乗り)」の手柄をたてることができた。

 ちなみに、「呼子坂」は、源氏の軍勢をこの場所で呼び集めたという故事による。「平家越」は、富士川の合戦の際に、戦意が低い平氏の軍勢が、夜、水鳥の飛び立つ音を聞き違えて、戦わずに逃げ去ったという故事によっている。「和田川」は、やはり富士川の合戦の際に「和田義盛」が、この川に逆茂木(さかもぎ・今でいうバリケード)を作ったことによって、この川を「和田川」と呼ぶようになったのだという。

7 竹採塚

 実は竹取物語の里と呼ばれる場所は、全国に多くあり、この比奈の地が竹取物語の故郷であるとの決定的な根拠は残念ながら、ない。しかしながら、この公園内に墓がある「白隠禅師」の著作から、少なくとも十八世紀には、この地に竹取物語が語りつがれていたことは事実であり、十九世紀の安藤広重などが、東海道五十三次「原」において、かぐや姫を描いていることや、「東海道名所図絵(一七九七年)」にも解説されていることを思うと、数ある竹取物語の故郷とされる中では、最もよく世に知られている場所であったことは間違いない。