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富士山小考

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 富士市に暮らす私たちにとって、富士山はあまりに近い存在であってふだんは意識することは少ないのだが、折々の節目には富士山が引き合いに出され、様々な富士の姿を心の中に思い浮かべることになる。偉大さ、力強さ、永続性、高さ、神聖さ、美しさ、均整のとれた姿、優美さ、などを私たちは富士山に見て取ることができよう。しかし、それら我々が思い浮かべる富士の姿は歴史的、文学史的にいえば少々偏っており、特に美意識に関する部分に関しては大きな欠落があるように思われてならない。

 富士山は文学史的には「恋の象徴」としての側面が非常に強く、しかもそのことはあまり知られていない事実である。。

 まずは「万葉集」を見てみよう。万葉集には長歌二首、短歌七首、計九首に「富士」が詠まれている。最も有名なものは、山部宿禰赤人作の「不尽山を望(みさ)くる歌」(巻第三317、318)の長短二首であり、この巻第三にはその他、長歌一首と短歌二首に富士が詠まれているが、いずれも「神聖な霊峰富士」を礼賛する内容である。

 しかしながら、巻第十四東歌の相聞歌に詠まれている富士は恋愛のよすがとなっている。

 駿河国相聞往来歌

(3355)天の原富士の柴山木の暗の時ゆつりなば逢はずかもあらむ

(3356)富士の嶺のいや遠長き山路をも妹がりとへばけによばず来ぬ

(3357)霞居る富士の山びに我が来なばいづち向きてか妹が嘆かむ

(3358)さ寝らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと

 3355歌中の「天の原富士の柴山」までは「木」もしくは「木の暗」の序詞と見るべき。「木の暗」は「この暮れ」との掛詞。「ゆつる」は「移る」の意。大意は、「この木陰の暗い富士の山麓で、あなたと逢うこの暮れ方の時が過ぎゆくならば、もう再び逢えないのだろうかなあ」となり、鬱蒼とした富士山麓が刹那的な逢瀬の舞台となっている。

 3356 歌中の「妹がり」は「恋人のもとへ」の意。「けによばず」は難解で異説もあるが、「日数もおかずに」の意味。大意は、「富士の嶺の遠い山路も、恋人のもとへ訪ねゆくので日数もおかずに来ることだ」となる。この歌では富士は「いや遠長き山路」を強調し、ひいては自らの恋心の強調手段ともなっている。

 3357歌中の大意は、「霞のかかる富士の麓に私が行ったならば、(私の姿を求めて嘆くだろう恋人は私の行方がすっかりわからないだろうから)どこに向って嘆くことだろう」となり、富士の裾野の広大さが強調されているが、恋人の姿を求める情が富士の山麓に広がってゆく。

 3358歌中の「玉の緒」はここでは「短い時」の例え。大意は、「あなたと寝た時は短いのに、恋心は富士の高嶺の鳴沢のように高く(私の胸の中で)響いております」ちなみに「鳴沢」は現在の「大沢崩れ」のことで音を立てて岩が崩れてゆく様を「鳴」と表したものであろう。ここでは「富士の鳴沢」は「恋心の胸の高鳴り」を象徴している。

 以上四首に表された富士のイメージは、巻三のそれとは大きく異なっており、神聖視する観点よりも、恋心の引き立ての役割の方が強く表わされている。

 我々は万葉集に関して、「ますらをぶり」「男性的で率直、直接的で素朴な感情表現」「自然を神聖視した」などの印象を強く持っており、山部赤人の「不尽山を望くる歌」に強く表されている霊的で雄々しいイメージをもって、万葉集から得られる富士のイメージのすべてとしがちである。しかし、東歌に表された庶民の富士像は、恋の舞台となる広大な姿であり、胸の高鳴りの象徴なのである。

 しかしながら、これらはそれぞれ共通するものではなく、独立した相聞表現であり、美意識と言いうるものではない。

 さて、平安時代前期から鎌倉時代初期にかけて八つの歌集が天皇の命で作られた。いわゆる「八代集」である。「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」「後拾遺和歌集」「金葉和歌集」「詞花和歌集」「千載和歌集」「新古今和歌集」の勅撰和歌集八集である。これらの歌集は日本人の美意識の原点とされる重要な作品群であるが、この「八代集」の中には「富士」が読まれた歌が長歌二首、短歌二十七首、計二十九首ある。これらの和歌から「富士」の文学的なイメージを読みとってみよう。

古 今 人しれぬ思ひをつねにするがなる富士の山こそわが身なりけれ

古 今 富士の嶺のならぬおもひに燃えばもえ神だに消たぬ空しけぶりを

後 撰 我のみや燃えて消え南世とともに思ひもならぬ富士の嶺のごと

後 撰 富士の嶺をよそにぞ聞きし今は我が思ひに燃ゆる煙なりけり

後 撰 しるしなき思とぞ聞く富士の嶺もかごと許の煙なるらん

拾 遺 千早振神も思ひのあればこそ年へて富士の山も燃ゆらめ

拾 遺 世の人の及ばぬ物は富士の嶺の雲居に高き思ひなりけり

詞 花 年をへて燃ゆてふ富士の山よりもあはぬ思ひはわれぞまされる

新古今 煙たつ思ひならねど人しれずわびては富士のねをのみぞなく

新古今 富士のねの煙もなをぞ立ちのぼる上なきものは思ひなりけり

新古今 世中を心たかくもいとふかな富士の煙を身の思ひにて

新古今 風になびく富士の煙の空にきえてゆくゑも知らぬわが思哉

 以上の十二首に共通の「思ひ」とは恋心に他ならないが、実は「思ひ」の「ひ」は、「火」の掛詞となっており、噴煙をあげる「富士」の縁語である。これらは直接的には和歌の主題とは結びつかないが、間接的に一定の雰囲気を醸し出す役割を担っている。要するに、「私の『思ひ』の『火』は、煙をあげる富士の嶺の火のごとくである。」ということだ。古今和歌集にはその他に長歌二首に富士が描かれているが、それぞれ「富士の嶺の〜思ひ」と「富士の嶺の燃ゆるおもひ」とあり、短歌十二首と共通である。

 また、同様のことは「恋(こひ)」にもあてはまり、以下の四首中『恋(こひ)』の『火』が、「富士」の縁語となっている。

古 今 きみといへば見まれ見ずまれ富士の嶺の珍しげなくもゆるわがこひ

後 撰 恋をのみ常にするがの山なれば富士の峰にのみ泣かぬ日はなし

拾 遺 我が恋のあらはに見ゆる物ならば都の富士と言はれなましを

後拾遺 いつとなく心そらなるわが恋や富士の高嶺にかかる白雲

 以下の歌は、前出の「後撰 我のみや〜」の返歌であり、「燃える思ひ」を前提にしている。

後 撰 富士の嶺の燃えわたるともいかがせん消ちこそ知らね水ならぬ身は

 また以下の歌は、「胸の思ひ」を富士に例えており、「思ひの火の煙も、涙の波も立たない日はない」との意味である。

詞 花 胸は富士袖は清見が関なれやけぶりもなみも立たぬ日ぞなき

 以下の歌は部立てが恋歌であり、「煙に寄せて侘ぶる恋」の前書きがある。

新古今 しるしなき煙を雲にまがへつつ夜をへて富士の山ともえなん

 恋の歌とは異なるが、以下の歌は離別、羇旅(きりょ)であり、富士に対する純粋な叙景歌ではない。後撰集の歌は、信濃にゆく人に薫き物(香)を贈る際に詠まれたもので、作者の名の「駿河」にちなんで「あなたへの思ひ」=「富士の煙」に例えられており、「私の思いを忘れないでほしい」との意味を表している。また新古今和歌集の歌は、「別れの悲しさ」が「煙」に例えられており、「私の(別れの)悲しさは富士の煙のように、晴れることもないことだ」との意味を表している。

後 撰 信濃なる浅間の山も燃ゆなれば富士の煙のかひやなからん

新古今 道すがら富士の煙もわかざりき晴るるまもなき空のけしきに

 これまでに八代集に表れる富士が詠まれた和歌二十三首をあげた。先に八代集において富士の歌は、二十九首に及ぶと述べた。つまり八代集において純粋に富士が叙景歌として詠まれたものは、わずかに六首にすぎない。 

 これらの時代に実際に富士が噴火活動をしていたかどうかはこの際問題ではなく、平安から鎌倉にかけての歌人たちのうちに、「富士」=「火」=「思ひ」「恋(こひ)」との共通認識があったことを押さえておきたい。

 平安、鎌倉時代の貴族たちが実際に旅をし、見ることができた名所は数が限られている。律令体制が弱体化してきた平安末期には東国には行きにくく、その代わりに名所が詠み込まれた歌を鑑賞することで経験の代用としたのである。富士という歌枕が観念的な「恋、熱情の象徴」としての存在として人々の間に共有され、共通の美意識となり育っていったのである。 

 はなはだ皮肉なことに、八代集中で富士を詠んだ二十九首中、「恋」「思ひ」に結びつかない六首の中にこそ、人々に最もよく知られた和歌が含まれている。

新古今 田子の浦にうちいでて見れば白たへの富士の高嶺に雪はふりつつ

新古今 時知らぬ山は富士のねいつとてか鹿子まだらに雪のふるらん

 著名な例外によって本質が隠されてしまったといえるのではなかろうか。先にあげた万葉集にも同じことが言える。山部赤人の深く澄み入るような叙景歌、自然詠によって、私たちが見失ってしまった富士の姿があった。

 「恋の山、富士」の視点は八代集と同時代の著名な散文作品から伺い知ることはできない。「竹取物語」「伊勢物語」「更級日記」「東関紀行」などには富士についての記述があるのだが、「思ひ」「恋」とは結びつかない。和歌の世界に生まれ、歌枕として育ち、そして歴史の中に隠れつつある美意識が、「恋の山、富士」なのである。

 時代によって富士は、神聖さ、荒々しさ、美しさ、高さ、広さ、調和、均整、などの象徴であった。太宰治は「富嶽百景」の中で「通俗」の象徴として富士を描いている。松尾芭蕉は「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」とも詠んだ。それら富士に対する愛憎の二律背反の感情は私たちの心の奥底にも横たわっているものであるが、けして富士の尊厳を傷つけるものでもない。

 ともすれば現代に住む私たちは「富士」の姿に理想主義的な教訓を見てとりがちである。それは富士市内の学校の校歌などを見れば一目瞭然なのだが、ある意味において非常に偏った捉え方であり、歴史的な富士の捉え方はその裾野のごとくに広く多岐に渡るのである。

 私たちは、富士に対する日本人の心情の深さに思いをいたし、それと同時に次世代がいかなる意識を富士に持ちうるのかを見守ってゆかねばならないのだと思う。そのためにも、私たちは心の中に「富士の山」=「恋心」との美意識を付け加えてゆくことが不可欠なのである。