高校入試合格者に対して、オリエンテーションを4月初日に行うが、その際に教科学習法という小冊子を配付する。その原稿である。具体的というよりむしろ抽象的な内容であり、読み物として国語科に興味を持っていただくように心がけている。
国語科で学ぶこと
国語という教科には三本の大きな柱がある。1 実用的側面、2 学問的側面、3 芸術的側面、の三つである。
いうまでもなく、実用的側面とは、日本語の読み、書き、会話の能力に関する勉強のことである。日本語の基礎的な能力を高めるために、本校では月に一度の割合で、全校漢字テストを行っている。この漢字テストの結果は、国語の成績の一部分として参考にされている。漢字能力は、一生の財産である。身につけた漢字能力は、おそらくは、検定何級合格という目に見える資格などよりも、はるかに重要な能力だといえよう。ぜひとも積極的に取り組んでほしい。また、文章を書く能力を養うために、一学期中に生活体験文コンクール(弁論大会)を、夏期休暇中に、読書感想文コンクールを行う。全生徒の参加で、多くの選考を経て、作品を選んでゆく。またこれらのコンクールの結果、優秀作品は、静岡県読書感想文コンクールなどに応募の上「湧水(ゆうすい)」という本校の雑誌に掲載される。
次に、学問的側面であるが、高等学校の授業では「古文」「漢文」という新しい科目を勉強することになる。これらの勉強は、直接的には、皆さんの生活にはかかわり合いを持たないが、間接的に、日本人としての教養を、皆さんに与えてゆくという大きな役割を持っている。また、どのような分野にもかかわらず、学問とは、物事を分析してゆく力を養う効果がある。この分析力を養うことも、国語の大きな役割といえよう。
最後に、芸術的側面がある。芸術は、音楽、美術、そして文学、の三つに分けられるが文学という芸術を味わう能力を身につけてゆくことも、重要である。また、夏期休暇中に文芸作品コンクールを開催し、優秀作品を静岡県文芸作品コンクールに応募の上、「湧水(ゆうすい)」に掲載する。芸術というものは、けっして一部の人々の独占物ではない。普通に暮らす、われわれの生活に、潤い、安らぎ、刺激を与えてくれるものなのだ。芸術など、なくとも生きてゆける。しかし、芸術を味わう力を持った人の、なんと魅力的なことか。
以上の三点こそが、国語科で学んでいただきたい三本の柱である。
1 実用的な国語力をつけるためには
まずは、漢字能力を身につけること。学期始めに国語科より、漢字テストの計画と、実施範囲が発表される。漢字能力を身に付けるためには、近道は、全くない。地道な努力しか方法はないのだ。書くことなしに、覚えることはできない。漢字テストの範囲をすべて書いてみて、書けなかった漢字だけ、また書き直してみる、といった方法でしか、漢字は覚えられない。漢字は、目ではなく、手で覚えるものである。
また総合的な日本語能力を養うために、定期的に文章を読む必要がある。特に新聞を読むことをすすめたい。新聞には膨大な情報が集約されている。政治、経済、芸術、社会、科学、小説、スポーツなどなど、これほどの情報の宝庫を活用しない手はない。
もう一点として、普段の言葉づかいについて、気を付けて頂きたいと思う。友人同士の会話ならよいが、教員など、目上の者に対しての言葉づかいを正確にすることを心掛けてほしい。君たちが望むと望まざるとにかかわらず、日本語とは、目上や目下、親密さや縁遠さ、によって、言葉づかいが異なる言語である。複雑な日本語をマスターするためには社会に出る何年も前の段階から、訓練しなければならないのだ。
2 学問的な国語力をつけるためには
古文や漢文など知らなくとも生活には不自由はない。しかし、教養とは、生活に直接関係がなく、間接的に関係しているものである。人はパンのみでは生きられない、という言葉がある。人は、生きるだけではいけない。笑い、哀しみ、怒り、人を愛さなければならない。教養を深めるということは、人らしく生きるための勉強なのである。国語教師が、古文を教える。それは、文法を教えるためではない。その文章を書いた、古の人々との心の交流を求めるためだ。漢文しかり、現代文しかり、である。
直接、人生に関係しない学問は、勉強の意欲が湧きにくい。しかし、自分の、人間としての厚みを増すための勉強だと、深く認識してほしいと思う。
学問というものは、物事を分析してゆくものである。本校の生徒は、直観的に物事をとらえる力(総合力)は、十分あるが、この分析能力に劣る生徒が多い。物事には、原因があり、原動力があり、きっかけがあって、結果にいたる。このような、論理的なものの考え方は、訓練なしには得ることができない。
具体的な勉強に関しては、各授業担当教師の指示に従うことになるが、一つだけ強調しておきたい。すぐれた包丁は、すぐれていればいるほど、よく使いこまれ、研がれる。そのために、何年も経つうちに、やせてゆき、なくなる。その反面、すぐれた刀は、それが使われるときには、必ず、けが人、死人が出るために、慎重に使われ、後世にまで残るのだという。刃物の名人は、包丁と刀を作りわけてゆく。大切に残すべきものと、使いこまれて、残らぬものの違い、である。
実は、辞書についての話をしようと思って刃物の話を出してみた。辞書の役割は、刀ではなく、むしろ包丁としての役割が求められているのだ。辞書を、刀のように飾り物にしてはならない。辞書とは、使い込まれ、汚れ、すり減ってゆくべきものなのだ。国語、古語、漢和、の三冊の辞書が、できるだけ汚されることを期待する。
3 芸術的な国語力をつけるためには
文芸という芸術を教えることも、国語科の一つの役割である。詩、短歌、俳句、などの芸術を理解し、鑑賞を深め、また自ら創作するということは、一部の選ばれた人にのみ許されるものではない。かつて、芸術は、一部の階級の人々の独占物であった。しかし、現在は違う。芸術を通じ、自然との接点を持ち、人との接点を持ち、自分の世界を広げてゆくことは、人間にのみ許された特権である。「古池や蛙とびこむ水の音」という俳句を松尾芭蕉は作った。濁った池に、蛙が飛び込む情景が、詩になるなどとは、日本人以外には到底理解できないことだろう。汚い池がある、と見るのが普通の人だ。その池から詩を作った男がいる。目が違うのではない。心が異なっているのだ。芭蕉という男は、馬の小便すら詩にしている。芸術的な心の目を持った人にとっては、世界は、光に満ち、感激に満ちていることであろう。芸術とは、そのようなものである。
夏期休暇中に、文芸作品コンクールが催される。小説、随筆、詩、短歌、俳句、を全生徒に創作してもらう。幸いにして、本校の選考を経て、静岡県に送られた作品は、例年高い評価を受け、昨年度は、詩、短歌、俳句の部門で佳作を受賞している。一昨年度は、短歌の部門で最優秀作品も受賞している。文芸作品を作るためには、日頃から、心を磨かねばならない。俗悪なテレビ番組や、低劣な雑誌を見ることによって、心は次第にすさみ、濁ってゆく。自分の心を大切に、きれいに、純粋に保っていくこと。芸術的国語力を養うためには、それしか方法はないのだ。
まとめ
以上のように、国語科では、@実用的な国語の勉強を通して、日本人として必要な日本語によるコミュニケーション能力を、A学問的な国語の勉強を通して、社会人としての教養と知性を、そして、B芸術的な国語の勉強を通して、人間としての奥行き、という三点を勉強する。あくまでも、国語という教科を教えることが目的ではなく、国語という科目を通して、君たちの人間性を高めることを目的にしているのだ。皆さんの、日本人としての、社会人としての、そして人間としての、力の高まりを願ってやまない。 (文責 国語科)