金石文解釈1 (富士市富士岡諏訪神社境内「記念碑」)
Y商業高校の西南200mにある富士岡諏訪神社の境内の記念碑を解釈した。高さ3m,
幅2mの日露戦争の戦勝記念碑である。
さて、この碑文の撰者である生駒藤之についてであるが、穆清舎の舎長(校長)として地元では著名な方であり、市内においても多くの碑文を撰している。漢学、砲術、英語、槍術、剣術に優れ、特に漢学においては他に追随を許さぬ碩学であった。穆清舎の舎長として約三十年、比奈、富士岡地区の教育に専念し、大正八年に七十七才で亡くなった。現在、穆清舎の後身、吉永第一小学校に銅像と 碑文がのこされており、本校西側に墓がある。
なお、記念碑の原文で使用されている旧字や俗字は、新字に置き換えた。碑文字の採取は筆者と、学生があたったが、鈴木輝夫氏の「私本碑文集 第四集」も参照させていただいた。
◆原文◆
記念碑
凡世之可厭莫甚於戦闘人之生死決於瞬間何其惨也世皆非不欲無戦闘而戦闘屡起者是亦勢耳安得無戦闘乎且夫禍乱之起兵力以定之猶驟雨之俄至風捲沙揚電光閃雷霆震然後乾坤一転雲霽日出万物蘇未有不仮兵力而定禍乱者也故雖至治之世不可無兵備英明之主防禍乱尤密而有禍乱起則出兵完之易於反掌此其平素不犯於目前之安而所慮者甚遠也我国自古屹立于東海武勇冠天下雖中世以降王室稍衰武威益振元和偃武以降発砲攘之令禁外交尤厳後米艦来浦賀要求通商既而鎖港制度一変与列国交通及王室中興内益修武備外与列国親而深察宇内之形勢遠審海外之事情所以防禍乱無不至兵蓋我国在古昔則不与列国交通其存亡固不関于痛痒今也列国競強争勇権謀相傾其一起一仆亦不可不知況於隣邦之利害豈可袖手傍観乎我国嘗告清国以當相扶朝韓国清国百方拒之遂渝盟要繋我艦于韓海於是起問罪之師討之時明治廿七年八月也我陸軍渡海入朝鮮一挙破牙山再戦抜平壌進渡鴨緑江攻陥之連鳳凰金州牛荘等諸城壘敵所恃咽喉地如旅順威海衛亦盡為我有而敵艦隊為我海軍所撃破殆殱滅焉敵将知事不可成乞降而仰薬死清国大懼遣使乞割地修幣持和露国与独仏二国連合沮我受地于清国既而事平未幾而露国仮満州于殆為其有矣於是我国使有司提議与露定約久而不決而露陰益修武備将以勢力屈従我乃与露遂絶於是乎詔起師討之卅七年二月我海軍発佐世保一向仁川一向旅順屡激戦于海上遂使敵艦屏息不能復出港口而待其第二及第三艦隊至要撃之于日本海捕虜六千司令長官亦就擒初其至者卅八隻至是得脱者不過数隻云而我陸軍掃攘露兵在北韓者直超鴨緑江十数月間連陥遼東諸壘遂窮追敵兵于鉄嶺至是米国大統領居間和解之卅八年十月和約成乃凱旋前役本村従軍者十数人上等兵石川徳松患疫没于兵站病院後役出征者七十二人大尉吉村信次戦死上等兵石川怱作以創没鈴木伊三郎病没而受金鵄勲章者七人其余受賞有差夫此二大役実出於不得已也大克二大敵国使四海列国環視驚嘆不惜可謂振古未曾有之盛事矣嚮勝清軍也世或以為僥倖得勝敗露軍也皆目我為強国蓋以二敵国強弱大不同也独怪露軍躯幹長大戎器精良非前後之比而毎戦不能支毫不異於前後豈彼怯懦懼死不能勇闘以取敗歟抑傲慢軽敵不力戦以招敗歟我之用兵決知其可敗而後出師是知露非不強而我強優於露也先是清国徒自誇大凌蔑我国而我能忍之者欲与彼利害相共使東洋万年之久保安無事也露国朶順於東洋久矣世皆此之虎狼而我不畏彼者以知其長於虚喝而其陸海軍技術不必精功也蓋我之於二大国豫知戦闘遂不可避国家無事之日廟模已決成算已定久矣而使彼逞暴威我遇之以礼而不敢軽発也以故其発之也知決江河勇之決勢孰能當之是所以奏偉功速而無一磋趺也今茲九月郷人相謀欲建碑以告後之人烏因記其事由云
生駒藤之 撰 静岡 小泉松塘 書
◆書き下し◆
記念碑
凡そ世の厭ふべきは戦闘より甚だしきはなし。人の生死は瞬間に決す。何ぞ其れ惨たるや。世皆戦闘無きを欲せざるに非ず。而るに戦闘の屡しば起くるは、是れ亦た勢ひのみ。安んぞ戦闘無きを得んや。且つ夫れ禍乱の起くるは兵力以て之を定む。猶ほ驟雨の俄に至り、風沙を捲き揚げ、電光閃き、雷霆震ひ、然る後乾坤一転雲霽れ日出で万物蘇るがごとし。未だ兵力を仮らずして禍乱を定むる者有らざるなり。故に治の世に至ると雖も兵備無かるべからず。英明の主は禍乱を防ぐこと尤密にして禍乱の起くる有れば則ち兵を出だし、之を完うすること掌を反すより易し。此れ其の平素目前の安を犯さず慮る所の者甚だ遠ければなり。我国は古へより東海に屹立し武勇天下に冠す。中世以降王室は稍や衰ふと雖も武威益す振ふ。元和偃武以降砲を発し之を攘ひ外交を禁ぜしむこと尤厳なり。後ち米艦浦賀に来たりて通商を要求し既にして鎖港の制度一変す。列国と交通し王室中興に及び内には益す武備を修め外には列国と親しむ。而して宇内の形勢を察し深め遠く海外の事情を審らかにす。禍乱を防ぐゆえんは兵に至らざる無し。蓋し我国古昔に在れば則ち列国に交通を与へず、其の存亡固より痛痒を関せず。今や列国、強を競ひ勇を争ひ権謀相傾け、其の一起一仆も亦た知らざるべからず。況んや隣邦の利害、豈に袖手傍観すべけんや。我国嘗て清国に告げ、以て当に朝韓国を相扶くべしと。清国百方之を拒み遂に盟要を渝へ我艦隊を韓海に繋ぐ。是に於いて問罪の師起ち之を討つ時は明治廿七年八月なり。我陸軍は海を渡り朝鮮に入り一挙に牙山を破り、再び戦ひ平壌を抜き、進みて鴨緑江を渡り攻め之を陥す。鳳凰、金州、牛荘等の諸城壘を連ね、敵は旅順、威海衛の如き咽喉の地を所持するも亦た盡く我有と為る。而して敵艦隊は我海軍の撃破する所となり殆ど殱滅せらる。敵将降を乞ふ成るべからざる事を知りて薬を仰ぎ死す。清国大いに懼れ使をして地を割かんことを乞はしめ幣を納め以て和す。露国と独仏二国連合と我の清国に地を受くるを沮み、既にして事平らかなること未だ幾ならず。而して露国満州を仮り殆ど其の有と為す。是に於いて我国は有司をして提議せしめ、露と約を定めんとすること久しうするも決せず。而して露は陰に益す武備を修め、将に勢力を以て我を屈従せんとす。乃ち露と遂に絶つ。是に於いて詔して師を起て之を討つは卅七年二月なり。我海軍は佐世保を発し一は仁川に向ひ一は旅順に向ひ屡海上に激戦し遂に敵艦をして屏息し復た港口を出づること能はざらしむ。而して其の第二及び第三艦隊の至るを待ち之を日本海に要撃す。捕虜六千、司令長官も亦た擒に就く。初め其の至る者卅八隻。是に至り脱するを得る者数隻に過ぎずと云ふ。而して我陸軍は露兵を掃攘し北韓に在る者は直ちに鴨緑江を超え十数月間に連りに遼東の諸壘を陥し遂に敵兵を鉄嶺に窮追す。是に至り米国大統領間に居り之と和解せしめしは卅八年十月なり。和約成り乃ち凱旋す。前役の本村の従軍する者十数人。上等兵石川徳松は疫を患ひ兵站病院に没す。後役の出征する者七十二人。大尉吉村信次は戦死す。上等兵石川怱作は創を以て没す。鈴木伊三郎は病没す。而して金鵄勲章を受くる者七人。其の余の受賞は差有り。夫れ此の二大役は実に已むを得ざるより出ずるなり。大いに二大敵国に克ち四海列国をして環視驚嘆せしむ。古へ振り未曾有の盛事と謂ふべきを惜しまず。嚮に清軍に勝つや世或ひは以て僥倖と為す。露軍に勝敗を得るや、皆我を目して強国と為す。蓋し以て二敵国の強弱大いに同じからざればなり。独り露軍の躯幹は長大にして戎器は精良前後の比に非ざるに、戦ふ毎に支ふること能はず、毫も前後に異ならざるを怪しむ。豈に彼怯懦にして死を懼れ、勇闘すること能ず、以て敗を取るや。抑も傲慢にして敵を軽んじ戦に力めず、以て敗を招くや。我の用兵は其の敗れるべきを知り、後に師を出すを決す。是れ露の強からざるに非ず、而るに我の強は露に優れるを知ればなり。先に是れ清国の徒は自ら誇り大いに我国を凌蔑す。而して我の能く之を忍ぶは彼と利害を相共にし東洋をして万年の保安無事を久しくせしめんと欲すればなり。露国は東洋を朶順せんとすること久し。世皆此れを之れ虎狼といふ。而るに我の彼を畏れざるは以て其の虚喝に長じ而して其の陸海軍の技術は必ずしも精功ならざるを知ればなり。蓋し我の二大国に於けるや予め戦闘の遂に避くべからざるを知る。国家無事の日、廟は模すのみ。成算を決し已に定まること久し。彼をして暴威を逞ましくせしめ我は之を遇するに礼を以てし敢へて軽発せざるなり。故を以て其の之を発するや、江河の勇を決するを知り、之を決するの勢ひ、孰か能く之に当らん。是れ偉功を奏すること速やかにして一磋趺も無きゆえんなり。今茲九月、郷人相謀りて碑を建て後の人に告げんと欲す。因って其の事由を云に記す。
生駒藤之 撰 静岡 小泉松塘 書
◆口語訳◆
そもそも世の中で戦争ほど厭われるべきものはない。人間の生死が瞬間に決まる。なんと悲惨なことだろうか。世の中の人は皆、戦争のないことを望んでいないわけではない。しかし、戦争がしばしば起こるのは、勢いによるものである。どうして戦争がないことが得られるだろうか(いや得られない)。また、戦乱が起こると兵力を使って平定する。ちょうど、雨が俄に降り、風が砂を巻き上げ、雷光がひらめき、雷が地を震わせ、そののちに天地が一転して雲が晴れ、陽が出て万物が蘇るようなものである。まだ兵力を使わずに戦乱を平定した者はいないのである。だから、平和な世にあっても、兵の備えはなくてはならない。賢明な君主は戦乱を厳しく防ぎ、戦乱が起こる時には兵を出し、手の平を返すより簡単に、戦乱を終わらせる。これは普段の平安におぼれず、考えるところが深いからである。我国は昔より、東海にそびえ立ち、武勇を世界にとどろかせていた。中世以降、宮廷はやや衰えたといっても、武力はますます盛んでいた。元和偃武(大阪夏の陣)以降大砲を発し外敵を払い、外交を厳に禁じさせた。のち米艦が浦賀に来て通商を要求し、鎖国の制度は一変した。多くの国と交わり、宮廷は再び盛んになり、国内には武力を備え、国外には各国と親しんだ。そのようにして世界の情勢を知り深め、遠くの海外の事情を細かく知った。戦乱を防ぐためには兵力に頼らざるをえない。思うに、我が国が昔のままにおれば、各国に交通を与えずに、国の存亡にさしさわりはなかっただろう。だが今、各国は、強さを競争し、はかりごとをめぐらし、その興亡と無関係ではいられない。まして、隣国の利害をどうして手をこまねいて傍観できようか。我が国はかつて清国に、朝鮮半島を共に助けようと告げた。清国はこれを拒み、ついに盟約を違えて、我が艦隊を韓海につなぎとめた。そこで、その罪を問う師団を起こし清国を明治二十七年八月に討った。我が陸軍は海を渡り、朝鮮に入り一挙に牙山を破り、再び戦い平壌を攻め落とし、さらに進んで鴨緑江を渡って攻め落とした。鳳凰、金州、牛荘などの城を連ね落とし、敵の所持する旅順、威海衛のような重要地点も同様に我が国のものとなった。そして、敵の艦隊は我が海軍に撃破され、ほとんど壊滅した。敵の将は降伏が許されないことを知って薬を飲み、死んだ。清国は我が国を大変に恐れ、使者を遣わし地を割譲し、金銭を納めることを乞い、和平した。露国と独仏二国連合とは、我が国が清国から地を割譲されることを阻み、平和はわずかも訪れなかった。そして、露国は満州をほとんど自国のものとした。そこで、我が国は役人に提議させ、長い期間に渡って、露国と条約を定めようとしたが、決まらなかった。そして、露国は陰でますます武力を備え、その勢力で我が国を従わせようとした。そこで、我が国はついに、露国と断絶した。そこで、天皇が詔を出し、師団を起こし、露国を討ったのは明治三十七年二月であった。我が海軍は佐世保を出港し、一団は仁川に向かい、一団は旅順に向かい、しばしば海上で激戦し、ついに敵艦を閉じ込め、再び港から出られないようにした。そして、露軍の第二および第三艦隊が到着するのを待ち、日本海において迎え撃った。敵の捕虜六千名、司令長官も捕虜となった。はじめ、ここに到着した艦船は三十八隻。ここに至って、脱出することができたのは数隻に過ぎないという。そして、我が陸軍は露兵を一掃し、北韓にいる者は直ちに鴨緑江を越え、十数カ月にわたってしきりに遼東の拠点を攻め落とし、敵兵を鉄嶺に追いつめた。ここに至って米国大統領が仲介し、露国と和したのは明治三十八年十月であった。和約が成立し、凱旋した。前の戦役(日清戦争)で本村から従軍した者は十数人。上等兵石川徳松は病を患い、野戦病院で死亡した。後の戦役(日露戦争)で出征したものは七十二人。大尉吉村信次は戦死した。上等兵石川怱作は傷を負い死亡した。鈴木伊三郎は病死した。そして金鵄勲章を受けた者は七人。その他の受賞には個人により差がある。そもそもこの二つの戦争は実にやむをえないことによって起こったことである。二つの敵国に大いに勝ち、取り囲む様々な国を驚嘆させた。いにしえより未だになかった一大事だというべきだろう。先に清軍に勝つと、世界の国々はあるいは、幸運によるものだと思った。露軍に勝つと、世界の国々は我が国を強国だとみなした。思うに、二つの敵国の強弱が違うからであろう。ただ、露軍の兵の体格は良く、兵器は清国と比べものにならないほど精密であるのに、闘うごとに防ぐことができず、全く清国と同じであったことを不思議に思う。どうして露軍が臆病で死を恐れ、勇敢に闘うことができなく、敗戦したといえようか(いや言えまい)。そもそも傲慢で、敵を軽んじ、戦いに努力せず、敗戦を招いたといえようか(いや言えまい)。我が国の出兵は、露が破れることを確信し、その後に出兵を決定した。これは、露軍が強くないわけではないが、しかし我が軍の強さが露軍に勝っていることを知っていたからである。先に清国の人々は自らを誇りとして、我が国を大いに軽蔑していた。そして、我が国がこのことを我慢していたのは、清国と利害を共にし、東洋の長年の無事をきわめようとしたからである。露国は東洋を隷属しようと長年考えていた。世は皆、露国を虎狼のごとく残忍であると言った。だが、我が国が露国を恐れなかったのは、はったりの脅しに優れ、そして陸海軍の技術は必ずしも精巧ではないことを知っていたからである。思うに我が国の二大国に対しては、あらかじめ戦闘が避けられないことを知っていた。国の無事を政府はひたすら模索した。成算を長いあいだ考え、得た。二敵国が暴威を振るわせ、我が国はこれに対するに、礼を保ち、あえて挑発することはなかった。であるから、いざ戦を起こすに、決断の時を知り、勝敗を決する勢いは誰が止められようか。これがわずかなためらいも持たず、速やかに大きな功績を上げた理由である。この九月、土地の人々が相談し、碑を建て後の人に告げようとした。よってそのいきさつをここに記す。
生駒藤之 撰 静岡 小泉松塘 書
金石文解釈2 (鵜無ケ淵神明宮 記念碑)
鵜無ケ淵神明宮は、本校の北およそ二キロ、吉永第二小学校の東にある。参道の途中、左側にこの記念碑は建てられている。作者の「生駒所適」は、吉永第一小学校初代校長の生駒藤之氏のことである。
◆原文◆
記念碑
鵜無ケ淵神明宮在邑之中央殿宇據丘陵為位東望伊豆諸山於雲煙之際西眺三保薩唾於波濤之間風光尤稱絶佳今茲一月神戸市上山與作君投私財修理祠前道路長九十間中央敷列石板側面築以石畳行数十歩而上石級又行数十歩而又上石級如此行而上者前後六石級合為一百有二級而達於拝殿殿後又有石級十三級其巓為本社焉於是乎寂莫之幽境變為荘厳之霊域上山君石川源三郎君之第二子年十七去郷給事大坂豪商岩井某期満為神戸支店管理後独立以海外貿易為業蓋以本社為君幼児之城隍廟故有此挙也十月告成欲先祭日建記念碑而日已迫屬文於余不暇往而一見其工事因従所聞記焉以塞責云
大正四年乙卯十月 生駒所適 撰 本多藤江 書
◆書き下し◆
記念碑
鵜無ケ淵の神明宮は邑の中央に在り。殿宇は丘陵に據り為る。位は東に伊豆諸山を雲煙の際に望み、西に三保薩陲を波濤の間に眺む。風光尤稱にして絶佳たり。今茲一月、神戸市の上山歟作君、私財を投じ、祠前の道路を修理す。長さ九十間、中央に石板を列べ敷き、側面は以て石畳を築く。行くこと数十歩、石級を上り、又行くこと数十歩、又石級を上り、此くの如く行きて上ること前後六石級、合わせ一百有二級を為し、拝殿に達す。殿の後又石級十三級有り。其の巓きに本社を為る。是に於いて寂莫の幽境変じ、荘厳の霊域と為る。上山君は石川源三郎君の第二子なり。年十七にして郷を去り大坂の豪商岩井某に給事す。期満ち神戸支店の管理と為り、後に独立し、海外貿易を以て業と為す。蓋し本社を以て君の幼児の城隍廟と為す。故に此の擧有るなり。十月成るを告げ、先づ祭日記念碑を建てんと欲するも、日已に迫る。文を屬すに余の暇あらず。行きて其の工事を一見し、因りて聞く所に従ひて記す。以て責めを云に塞ぐ。
大正四年乙卯十月 生駒所適 撰 本多藤江 書
◆口語訳◆
記念碑
鵜無ケ淵の神明宮は村の中央にあり、社殿は丘によりそって作られている。東には伊豆の諸山をはるか雲のかなたに望み、西には三保松原や薩陲峠を波の間に眺める位置にある。景色は最高であり、絶景である。今年一月、神戸市の上山歟作君は私財を投じ、ほこらの前の道路を修理した。長さ九十間(百六十。)、中央に石板を列べ敷き、側面は石畳で築いてある。数十歩行き石段を上り、又数十歩行き、又石段を上り、このように六つの石段を上り、合わせて百二段を上り、拝殿に達する。拝殿の後ろを、又石段が十三段有る。其の頂上に、本殿が作られている。この修理のために、もの寂しい世間から離れた地は、荘厳な霊域となった。上山君は石川源三郎君の第二子である。十七歳にして故郷を去り、大坂の豪商岩井某のもとで働いた。時が経ち、神戸支店の管理となり、後に独立し、海外貿易を生業とした。思うに、本社(神明宮)を彼の幼児のための、守り神としようとしたのだろう。そのためにこの行いをなしたのだ。十月に完成することを告げられ、まづ祭日に記念碑を建てようとしたが、日時が迫っており、文章を書く時間が足りない。行きてその工事を一見し、聞く所に従って記した。以上で文章を終える。
大正四年乙卯十月 生駒所適 作 本多藤江 書